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大阪高等裁判所 平成10年(う)569号 判決

本籍《省略》

住居《省略》

自営業 B山春夫

昭和六年四月九日生

右の者に対する偽証被告事件について、平成一〇年三月二四日神戸地方裁判所が言い渡した判決に対し、検察官から控訴の申立てがあったので、当裁判所は次のとおり判決する。

検察官中村雅臣、同岩橋廣明、同須藤政夫 各出席

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、検察官作成の控訴趣意書及び控訴趣意補充書に記載されたとおりであり、これに対する答弁は主任弁護人古髙健司ら作成の答弁書及び答弁書(補充書)に記載されたとおりであるから、これらを引用する。

(以下の判断において、原判決が用いた略語はとくに断りなくこれを用いることがある。)

第一控訴趣意中、訴訟手続の法令違反の主張について

一  論旨は、要するに、原判決は、本件公訴事実を認めるに足りる証拠がないとの結論を導くに際し、D原電話とD岡電話の重なりに関するB谷二夫の検察官調書及び手帳の信用性、C林電話の時刻に関するC林証言の信用性及び被告人の自白調書の信用性をいずれも否定したが、これらの判断は、差戻判決たる控訴審判決(以下「第一次控訴審判決」という。)の判断に反するものであるから、右判断に基づく原判決は裁判所法四条に違反しており、この訴訟手続の法令違反は判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。そこで、所論にかんがみ記録を調査して検討する。

二  裁判所法四条は、上級審の裁判所の裁判における判断がその事件について下級審の裁判所を拘束することを認めているが、これは、上級審の裁判所の判断と下級審の裁判所の判断とが食い違うことにより事件が際限なく審級間を上下するのを防止することをその趣旨とするものであり、上級審をして下級審の裁判の指導に当たらしめるために認められたものではない。したがって、この拘束力を有する判断とは、破棄の直接の理由、すなわち原判決に対する消極的否定的判断についてのみ生ずるものであって、この判断を裏付ける積極的肯定的事由についての判断は、破棄の理由に対しては縁由的な関係に立つにとどまり、何らの拘束力を有するものではないと解される。論旨は、原判決が事実認定に関する第一次控訴審判決の判断の拘束力に違反している旨主張しているので、第一次控訴審判決がいかなる事実判断を示しているのかをまず考察することとする。

三  第一次控訴審判決は、控訴審として何らの事実取調べも行わず、書面審理に基づいて、差戻前一審の無罪判決を破棄して差し戻したものであり、その理由の結論部分には、「以上の次第であるから、原判決は、被告人両名(本件被告人及びE田花子・当審注)の各国賠証言につき、客観的虚偽性及び主観的虚偽性・偽証の犯意のいずれの点においても、取調べ済み証拠の評価を誤った疑いが強く、かつ、取り調べるべき証拠を取り調べなかったという審理不尽が直接または間接に介在しており、これらが重なった結果、各公訴事実の立証が不十分である旨事実を誤認するに至ったものというべきである。そして、その誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、原判決は破棄を免れない。論旨は理由がある。よって、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄したうえ、本件につき更に審理を尽くさせるため、同法四〇〇条本文により本件を原裁判所である神戸地方裁判所に差し戻すこととし、主文のとおり判決する。」と記載されている。事実誤認の条文のみを掲げながら審理不尽をも指摘しており、判示するところ、判文上必ずしも明確ではないといわざるを得ない。

そこで、その理由として述べているところをさらにみると、電話の順序に関する判断部分のうち、「B谷供述とB谷手帳は相まって、D岡電話の際にA山学園の回線が点灯中であったこと、ひいてはD岡電話とD原電話が時間的に重なり合っていたことを推認させる方向での有力な証拠というべきであり、原判決が信用性に疑いありということで結論的にその証拠価値を否定したことには疑問が残る。」という部分は、事実認定にかかる証拠判断を示したかのようにもみえるが、右は、「推認させる方向での有力な証拠」「疑問が残る」などと、確定的な判断ではないことをそれ自身明示している上、これに続く部分では、「判断資料の不十分さは蔽うべくもなく、必要な審理を尽くしていないことは明らかというべきである。」、「B谷供述及びB谷手帳は、これらの証拠(検察官請求の証拠等のこと・当審注)と総合して評価・判断をなすのが相当というべきである。さらに必要に応じて、その他のC谷電話、D沢電話の通話相手についても、本件各電話の順序を確定するための証人として取り調べることの要否を検討して然るべきと思われる。」とし、結局、差戻前一審判決が検察官による証拠調べ請求を却下したことをとがめて「審理不尽に基づく事実誤認がある。」旨判断している。

また、C林電話の時刻に関する判断部分においても、「同証言(C林証言・当審性)の全体的な信用性の判断を誤った疑いが強いといわなければならない。」との事実認定にかかる証拠判断部分には、「疑いが強い」との含みを持たせた表現が用いられ、さらに「これら(検察官が証拠請求していた証人であるE野五郎やE林六男・当審注)の尋問を行うことにより、C林証言の信用性につき外部的な裏付けがあるか否かを検討することが可能。」とするだけでなく、「本項のC林電話の時刻は、第二項で述べたD原電話やD岡電話等の順序及び時間帯とも密接に関連しており、第二項に関する審理を尽くしたうえで、これをも踏まえて本項の判断をなすのが相当というべきである。」旨、個々の事実認定が独立したものではなく、他の事実とも関連した総合判断であることを明示し、結局「原判決は、C林証言の信用性の判断を誤った疑いがあることに加えて、審理不尽があり、これらに基づきC林電話の時刻に関する事実を誤認するに至ったものといわざるを得ない。」旨判断している。

さらに、被告人の国賠証言の主観的虚偽性及び偽証の犯意に関する判断部分においても、「被告人B山の自白調書の信用性を否定した原判決の判断には、多大の疑問がある。」というように、「疑問」という言葉で断定を避け、取調べ検察官の証人尋問を示唆するなどした上、「原判決には、C林電話の時刻及び電話の順序のいずれについても、客観的虚偽性に関し審理不尽とこれに基づく事実誤認があることは、第二、第三項で述べたとおりであるから、それは取りも直さず、本項の主観的虚偽性ないし偽証の犯意についての審理不尽・事実誤認をも招来することになるというべきである。」旨判断している。

以上の判示及び何らの新たな事実取調べを行っていない審理経過を総合すれば、第一次控訴審判決は、「事実誤認」の文言を用い、かつその条文のみを掲げてはいるものの、破棄理由の中心は、調べるべき証拠を調べていないという審理不尽であって、B谷の手帳や検察官調書、C林証言の信用性、被告人の自白調書の信用性等の個々の証拠評価や、電話の順序、C林電話の時刻、偽証の犯意等個々の事実認定に関しては何ら確定的な判断をしていないものと解される。すなわち、差戻前一審判決が十分な証拠調べをしていれば同判決の結論と異なった事実判断になる可能性があるのにこれをしないまま本件公訴事実を認めるに足りる証拠がないとした点をもって「事実誤認」若しくは「事実誤認の疑い」があると判断したものと解するのが相当である。これは、第一次控訴審判決自身が、事実相互の関係を指摘して総合判断を求めており、個々の事実の判断が他の事実と無関係になされるものとは考えていないことからも読み取れるところである。もっとも、「事実誤認の疑い」があるだけで無罪判決を破棄できるのかという重要な問題はあるが、本件では審理不尽を破棄理由にしていると理解することができるので、特に触れないこととする。

四  してみると、第一次控訴審判決は、差戻前一審判決が審理不尽の証拠状態の下で公訴事実を認めるに足りる証拠がないとの最終判断をしたのが誤りとしているだけで、個々の証拠評価や事実認定に関して拘束力を有する判断をしていないとみるのが相当であって、これを前提にする検察官の拘束力違反の主張は成り立ち得ない。そして、所論は、第一次控訴審判決が、事実認定に関して拘束力を有する判断をしたことを前提に、差戻審たる差戻後一審においてその拘束力を覆すだけの証拠調べがなされていない旨主張するが、右に述べたとおり、前提が誤っている上、差戻後一審は指示された証拠調べを行っているのであるから、採用できない。

原判決は、第一次控訴審判決の事実判断に拘束力があるけれども、審理不尽の判断に基づく各種証拠調べを行ったことにより拘束力から解放されたと考えたのか、それとも、もともと拘束力がないと考えたのか、必ずしも明確ではないが、本件において第一次控訴審判決の拘束力が問題とならないとした判断は結論として相当である。

論旨は理由がない。

第二控訴趣意中、事実誤認の主張について

一  はじめに

論旨は、要するに、本件証拠によれば公訴事実たる被告人の偽証事実が認定できるから、これを認めるに足りる証拠はないとして被告人に無罪の言渡しをした原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認があるというのであり、その主張の骨子は以下のとおりである。

すなわち、原判決は、「各公訴事実につき検察官が客観的事実であるとして主張する『電話の順序は、澤崎からC谷松子への電話、同じくD沢二子への電話、D原太郎からの電話、B谷からD岡への電話の順であった。』との事実については、右事実と矛盾する内容のC谷及びD沢二子の昭和四九年当時の各供述の信用性を否定することはできず、右事実を裏付けるE沢及びB月らの各証言は信用できないなどとし、同じく、『C林からの電話の終了時刻は、遅くとも午後七時五十数分であった。』との事実については、その裏付けとなるC林の証言等が信用できず、他方、被告人の供述変遷状況及び記憶喚起過程は不自然、不合理とはいえず、また、被告人らの澤崎に対する支援活動を同人のアリバイ作出に向けられたものと評価することには疑問があり、さらに被告人の自白調書については信用性が認められない。」などとした上、「被告人が証言時の記憶に反して虚偽の証言に及んだとする本件公訴事実については、これを認めるに足りる証拠がない。」としたが、C谷及びD沢六江(D沢二子の事件当時の名前。以下「D沢六江」を用いる。)の右各供述には信用性がなく、他方、E内、B月及びC林らの各証言並びに被告人の自白調書はその信用性に全く欠けるところがないばかりか、その他の関係証拠に照らしても、被告人の国賠訴訟における証言が澤崎のアリバイ立証に向けた虚偽のものであることが明らかであって、原判決は証拠の評価・判断を誤った結果、重大な事実誤認を犯した、というのである。

当裁判所は、所論にかんがみ記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討したところ、結論として原判決に検察官が主張するような事実誤認はないとの判断に至ったので、以下その理由を説明する。

二  判断の方法について

本件において、検察官が訴因として取り上げているのは、「昭和四九年三月一九日午後七時三〇分ころから被告人が管理棟事務室を出るまでの間の外部から同事務室への電話と同事務室から外部への電話の順序につき、澤崎からC谷へ、澤崎からD沢六江へ、B谷からD岡への関連する各電話とD原太郎からの電話との前後関係について記憶がないのに、『まず、D原太郎から電話があり、次いで澤崎からC谷へ、澤崎からD沢六江へ、B谷らD岡への各電話があった』旨の虚偽の陳述をした。」という、いわゆる大阪放送関係電話とD原電話の順序(以下単に「電話の順序」という。)に関する事項と、「右記載の電話の後、C林から同事務室への電話があり、B谷が通話中、同人から時刻を聞かれて被告人の腕時計を見たが、その時刻について記憶がないのに、『その時刻は八時一五分であった』旨の虚偽の陳述をした。」というC林電話の時刻の確認に関する事項であるが、検察官は、これらの事項に関する被告人の記憶が証言事実と異なることを立証することが必要となる。そして、検察官は、被告人の「記憶がないのに虚偽の陳述をした。」という主観面を、①右証言事項に関しての証言事実と異なる客観的な事実の存在、②被告人がB谷及びE田とともに行っていた澤崎に対する支援活動状況と供述変遷状況、③被告人の自白、によって立証できると主張しているので、以下検討するが、①の客観的事実の存在自体が当事者双方の争点の中心とされ、本件ではその存否判断のための証拠として被告人のほか、右のB谷、E田及び澤崎の各供述も検討せざるを得ないから、②及び③も、①について検討する中で、必要に応じて取り上げることとする。

三  証言事項に関する客観的事実について

1  はじめに

前記のとおり、本件で問題となる証言事項は、「電話の順序」と「C林電話の時刻」であるが、この二つは全く独立した別個の事実ではなく、被告人が、B谷、澤崎及びE田とともに管理棟事務室にいた長くとも数十分の間に発生した出来事であり、相互に関連するものである。したがって、客観的事実を検討するについては、これらを総合的に判断する必要がある。

ところで、原判決が第五の一「ほぼ争いなく認められる前提事実」(29頁以下。これ以降「以下」を省略する。)に掲げるように、問題となっている昭和四九年三月一九日(以下、年月日を示さない時刻は同日の時刻を意味する。)夕方以降の管理棟事務室における出来事に関して、以下の事実は証拠上前提にすることができると考えてよい。」

① 被告人は、同日夕方、管理棟事務室に副園長B海とともに在室し、同人が午後七時過ぎころ帰宅したため、以後一人で同室にいたが、その後、Y子捜索活動のため外に出ていた澤崎とB谷がA山学園に戻り、若葉寮職員室にいたE田とともに被告人のいる管理棟事務室に入ってきた。そして、間もなく、澤崎が夜食用のパンなどを、被告人がおはぎをそれぞれ出し、皆でこれらを食べたりお茶を飲んだりした。

② D原電話があり、管理棟事務室で電話をとったB谷が内線で青葉寮保母室に転送しようとしたが誰も出なかったため、B谷が直接青葉寮に連絡に行き、B野に取り次いだ。

③ ②との前後関係はともかく、大阪放送(ラジオ大阪)にY子の捜索を依頼するために管理棟事務室からいくつかの電話をかけたが、その順序は、C谷電話、D沢電話、D岡電話の順序であった。

④ C林電話があり、その電話により被告人がC林と午後八時四五分に神戸新聞会館前でY子の写真の受渡しをする旨の約束がなされた。

⑤ ④の電話から間もなく被告人が管理棟事務室を出てA山学園から出発した。

⑥ 右の各事実との前後関係はともかく、午後八時ころに若葉寮職員室にE川電話があり、B木が話をしているときE田が傍らにいた。

したがって、以下においては、右の出来事を前提にした上、検察官と弁護人の主張が対立する諸点についての証拠評価を示し、その後全体的な判断を示すこととする。

2  被告人並びにB谷、E田及び澤崎の各供述を検討する前提としてのアリバイ工作論について

(一) 検察官の主張

管理棟事務室内における出来事を検討するについては、当然のことながら、同室内にいた被告人の供述並びにB谷、E田及び澤崎の各供述も考慮せざるを得ない。しかしながら、検察官は、右四名の各供述につき、その国賠訴訟における供述や、本件公判廷における供述はそれぞれの変遷状況からいずれも虚偽であることが明らかであり、そのような虚偽供述はB谷を中心としたアリバイ工作としてなされたと主張している。その主張内容は本件起訴以来の審理過程において一部変遷しているが、現段階における主張は以下のようなものである。

B谷は、X死亡事件発生後、澤崎がXの殺害に関与していることを察知し、又は、澤崎からの依頼により同人を庇い、X殺害事件を闇に葬り去ろうと決意し、澤崎のアリバイを作出しようと企てた。そこで、B谷は、澤崎と相通じ、「澤崎はB谷及びE田と一緒に事務室に在室していたものであって、その際にXの行方不明を知った。」との事実を仮装し、さらに、この事実と、澤崎が犯行後グランドでB原ことB川秋子(以下「B川」という。)と出会っている事実との矛盾を避ける必要性が生じたことから、「澤崎は、被告人出発後も、B谷及びE田とともに事務室にいて三人で捜索表作成の作業をしていたが、B川らにおやつを差し入れるため青葉寮に行こうと事務室を出て管理棟裏口を開けたとき、B川からXの行方不明を知らされた。」旨の事実を仮装するとともに、E田に対してもこれに同調するよう働きかけた。さらにB谷は、被告人をも澤崎のアリバイ作出の仲間に加えることによって、澤崎のアリバイをより強固なものとするため、「被告人出発時刻は午後八時一五分である。」旨主張し、さらに、被告人の右出発時刻に裏付けを与えるため、「午後七時四五分のD原電話が最初で、その後澤崎がC谷電話、次いでD沢電話をかけ、自分がD岡電話をかけた。最後のC林電話の際、午後八時一五分を確認した。被告人はその直後に出発した。」旨主張した。昭和四九年四月七日に澤崎が逮捕された際には、澤崎が自白することを心配し、逮捕の際に澤崎に対し「死んでもしゃべるな。」と叫び、自白あるいは矛盾供述を防止するため「何もしゃべるな絶対に」などと記載した紙片を差し入れようとしたり、学園職員らを動員して澤崎が勾留されている兵庫県警察本部前で何度となくシュプレヒコールを繰り返すなどする一方、被告人及びE田らをして自己の前記主張に同調させ、澤崎のアリバイに関する供述内容を統一する目的で、「澤崎は午後八時一五分まで被告人、B谷及びE田と一緒におり、午後八時三〇分までB谷及びE田と一緒にいた。」などと記載したパンフレットを配布したり、職員会議あるいは弁護士を加えた席上等でその旨強く主張した。そして、B谷は、澤崎の釈放後、国賠訴訟に消極的な澤崎を引き入れ、澤崎の潔白を証明するとして同訴訟を提起することとし、これに向けて、被告人及びE田らとともに澤崎のアリバイ立証のための検討会に参加するなどする一方、それまでの情報収集の過程で「B木とE川の電話が午後八時であり、その際E田がその場にいた。」との事実が動かし難いものであることを知り、これまでの主張をこれに整合させるためには、E田が被告人出発前に若葉寮職員室に赴いた事実を作り上げなければならないことから、同年六月二四日の検察官の事情聴取において、「被告人出発前にE田が一度若葉寮保母室に赴いた。」旨を供述し、被告人及びE田に対してもこれに同調するよう働きかけた。

被告人は、自己の出発時刻についてはあいまいながら午後八時前後ころとの感覚的記憶を有しており、澤崎のアリバイの有無について確たる認識はなかったところ、澤崎の逮捕までは一応その記憶に従って供述し、職員らにもその旨発言していた。しかし、被告人は、澤崎の逮捕後、B谷が発行した前記パンフレットを見たり、B谷が「澤崎は被告人が出発した午後八時一五分までE田らと一緒に事務室にいたのでアリバイがある。」「D原電話が最初の電話だった。」旨強く主張するのを聞いたことなどから、これらの事実が、澤崎のアリバイについて重要な意味を持つことを認識し、かつ、園長としての立場から、B谷の主張どおり澤崎のアリバイが立証され、捜査官が澤崎に対し嫌疑を持たなくなることを強く望んでいたため、職員や澤崎の弁護人に対して、自己の出発時刻を午後八時一五分と述べるなどしたが、その一方でB谷の右各主張は、いずれも自己の記憶に反するものであったことから、全面的にこれに同調することは躊躇した。このような心理状態にあった被告人は、澤崎のアリバイの有無について確信がないまま、B谷に追従して、勾留中の澤崎に示す目的を持って、「アリバイの証明もできますので、安心して真実のみを語りなさい。」旨の文書を作成したり、自己の出発時刻について、職員らに、「記憶にないが、警察官との走行実験の結果から逆算すると、午後八時一五分に出発したことになる」旨発言したり、警察等の事情聴取に対しては、自己の認識に基づいて「三宮まで大体四、五〇分かかるので午後八時過ぎころ出発したことになる。」と供述したり、「出発した時かその後に腕時計を見たところ、午後八時一五分だった。警察官との走行実験の結果からすると、出発時刻は午後八時一五分と考えるのが妥当と思う。」などとあいまいな供述をし、また、電話順序については、警察等の事情聴取に対し、「記憶があいまいである。」旨供述していた。澤崎の釈放後、被告人は、国賠訴訟に向けた弁護団会議等に参加するなどしていたが、同年六月七日及び同月一一日に、A山学園から神戸新聞会館までの検察官との走行実験が実施されることになったため、自己の出発時刻が午後八時一五分ころであったとのB谷の主張に沿う走行実験結果になるようにとの目的を持って走行したところ、約三三分間の所要時間で走行し得たため、これをB谷の主張の裏付けに利用できることがわかり、B谷の主張に合わせて澤崎のアリバイを主張することを決意するに至った。

E田は、午後七時五〇分ころ以降若葉寮職員室に在室し、同室でB川からXの行方不明を知らされたため、被告人出発の状況やその時刻等について認識がなく、また、その後の澤崎の行動状況等についても認識がなかったところ、B谷及び澤崎から「B谷及び澤崎と一緒に管理棟事務室にいる間にXの行方不明を知った。」との虚偽の事実を供述するよう、閉口させられる程、いたるところで執拗にアリバイについて働きかけを受けたことから、当時の事務室内の状況について認識のないまま、当初の警察の事情聴取に対し、一応これに沿う供述をした。

以上が検察官の主張する「アリバイ工作」であるが、今後、各争点を検討する際にこのアリバイ工作についての考え方が影響せざるを得ないので、具体的な争点の判断に入る前に、これについて検討する。

(二) アリバイ工作の立証

(1) 検察官は、右のようなアリバイ工作につき、B谷、澤崎、被告人及びE田の間でアリバイ作出のための綿密な謀議・検討がX死亡事件直後からなされたものとは認め難いものの、E田自身のアリバイ工作の存在を認める供述、国賠訴訟に至るまでのB谷、澤崎、被告人及びE田らの各供述の変遷状況や、B谷の行っていた澤崎に対する支援活動、これに被告人及びE田が次第に同調していった状況などを総合すればこれを認めることができる旨主張している。

しかし、そもそも、本件においてB谷や被告人ら四名の間でアリバイ工作がなされたとの主張自体常識的見地からみて根本的な疑問があることは後に述べるとおりである上、検察官の全主張を通読しても、誰と誰の間で、いつ、どこで、どのように話合いがなされたのか不明であるといわざるを得ない。もちろん、アリバイ工作の内容をどの程度具体的かつ明確に記述できるかは、存在する証拠いかんにかかることであり、ケースによって、ある程度の幅と限界があるのは致し方ないとしても、本件では、前記検察官の主張によれば、アリバイ工作はいわば本件偽証のよって立つ基盤というべきものであるのに、その内容が余りにもあいまい模糊としているといわざるを得ない。特に、いつ、どの時点で話合いがなされたかが明確にされないと、被告人ら関係者の供述の信用性を判断する上で重要な視点を欠くことになる。まず、この点においてアリバイ工作の主張には重大な欠陥がある。

(2) 検察官は、まず、E田の同人に対する偽証被告事件の差戻後一審最終陳述における供述(当審で取り調べた証拠)がアリバイ工作を受けたことを認める供述である旨主張する。すなわち、右最終陳述中の、①「事件後、警察の取り調べが開始された頃から、山田(澤崎・当審注)氏に所かまわず至るところで『E田』はアリバイのことで話しかけられ、ひどく閉口させられた覚えがある。それが、『E田』の警察供述にどのように影響したのか、しなかったのか、今となっては分からないが、影響しなかったとは、明確に言い切れないのも事実である。」との供述が「澤崎についてアリバイ工作がなされたこと」を認めたものであり、②「『E田』が国賠で証言するため、大阪弁護士会館のアコーデオンカーテン型仕切りで区切られた小部屋において、弁護士との最初の打ち合わせの折、『先生のおっしゃることは何でも証言しますが、偽証罪に問われることにはなりませんか』と尋ねますと、『民事ですから、そういうことにはならないでしょう』と返答された。『E田』は、司法権力犯罪をマスメディアなどを通じて多く知っていたため、一抹の不安を覚えたが、有能な弁護士が確実な保証をしてくださったため、安心をして国賠で証言をしたのである。」との供述が「国賠訴訟においてE田が偽証したこと」を認めたものである、というのである。

しかしながら、右のような解釈はとることができない。確かに、右①②の文言をそれだけ読めば、それらが検察官主張のような意味を表していると受け取られかねない表現がないわけではなく、それゆえ当審でもE田にその説明を求めたのであるが、同人は、「そこだけをピックアップして読まれたら誤解を招くので最初から最後まで正確に読んでほしい。」と繰り返すのみで、具体的には説明を加えなかった。そもそも、右最終陳述は、書面にすればB5版の用紙四二頁に及ぶ分量で、A山学園における園児及び職員の一般的な状況やY子行方不明以降の職員の対応、さらに、澤崎に対する殺人被告事件並びに被告人及びE田自身に対する各偽証被告人事件の審理に対する自己の意見を述べたものであり、検察官が指摘する部分はその一部であって、全体の中での位置づけといってもその解釈はいくとおりか考えられるのである。例えば、弁護人は、①について、E田が澤崎から園児死亡事件当時のお互いの行動や警察で聞かれたことを所かまわず話しかけられ、おしゃべりな澤崎(E田は、最終陳述の別の部分で「本来のおしゃべりという性格」と記載して澤崎を非難している。)にあきれるとともに、それにより自己の記憶が混乱した趣旨であると解釈し、②につき、「偽証罪に問われる」とは、えん罪事件において無実の被告人に有利な証言をした人が不当にも権力によって偽証罪に問われているのと同様に、真実を証言したとしても偽証罪に問われるという意味であって、その心配を弁護士に相談した状況を記載したものであると主張している。このような相当量に及ぶ最終陳述書のごく一部の記載から、E田の真意を推し量ろうとすること自体E田本人が供述するように誤解を招きかねない無理なことをあえて行っているとのそしりを免れないが、加えて、①については、検察官の主張するアリバイ工作はB谷が中心であるのに、最終陳述書では、澤崎から話しかけられたとされ、別の部分では澤崎をおしゃべりであるとも記載されていることの関連からみて、②については、「司法権力犯罪をマスメディアなどを通じて多く知っていたため」という記載との整合性からみて、いずれもむしろ弁護人の解釈の方が自然であるといい得るものである。検察官は、E田が差戻前一審の公判廷でアリバイのことで澤崎と話したことはないとか、記憶がないとか供述していたのに、最終陳述はこれとその内容を異にするものであって、アリバイ工作があったことを認めたものというべきであると主張する。しかし、E田の右公判廷での供述は、アリバイ工作を意識して話し合ったことはないという趣旨を述べているとも解釈できるのであって、事件後警察の事情聴取がなされている時点で、職員が事件のとき自分がどこで何をしていたのか自ら想起しようと試み、あるいはさらに、一緒に行動していた者がいたら、お互い確認し合うようなことがあってもおかしくないのであるから、若干ニュアンスの違いは感じられるとしても、E田の右公判廷での供述と、最終陳述が全く異なった意味合いを有するとまではいえない。そして、何といっても、E田の最終陳述が、全体として自己の無実を含む正当性を訴えるものであることは否定し難く、検察官のような解釈はかなり無理があり、少なくとも、これをE田が「アリバイ工作」や偽証を認めた供述であると評価して、これらの事実を立証するための証拠に用いるのは相当でない。

(3) さらに、検察官は、B谷において、X死亡事件後、職員らに対して警察捜査への非協力を呼びかけ、澤崎の逮捕時には、同人に対し事実を述べないよう指示し、自己の支援活動方法に反対する弁護人の解任を画策し、自己に協力的な弁護士と会合を開くなどして関係者がアリバイにつき矛盾のない供述をすることを確認し合うなどし、アリバイ主張に疑問を呈する職員に対してはその批判を封じこめようとするなど異常なまでの支援活動をしたことが、アリバイ工作を推認させると主張している。しかしながら、この点については、原判決が第八の四「被告人及びB谷の澤崎に対する支援活動状況」(256頁)において詳細に説示しているが、同所で説示するところは相当である。そもそも、B谷の活動の過激性は、これが社会的に相当であったか否かは別として、仮にB谷の供述するところが真実であってアリバイが事実であるとすれば、B谷の立場からは、澤崎の無実を信じるのは当然であるから、人間としてのやむにやまれぬ正義感の発露として他の者に対して働きかけていた行動であるとして説明するのに何の問題もない。視点を変えていえば、B谷の供述が真実であるか否か、すなわち澤崎にアリバイが成立するか否かが立証のテーマであって、B谷の供述が真実に反するとすれば、確かにB谷の行動は異常ということになろうが、この立証のテーマを確定せずして異常であるとかないとかの評価を下すことは困難である。そして、「アリバイ工作」という言葉で通常イメージされるのは、共犯者や極めて親密な関係にある者同士の間でなされる密やかな工作であって、殺人罪というような重大事件において、多数の職員や父母の前であからさまにかつ過激な態様でなされることが、全くあり得ないとはいえないとしても、その効果に疑問があることと危険性を考えれば、かなり特異なアリバイ工作であることは否定できず、少なくとも、活動の内容がアリバイ工作であることと活動が過激であることとは直接には結び付かないと考える。

(4) また、検察官は、B谷を中心とした被告人、E田及び澤崎の各供述状況及び供述変遷から、アリバイ工作が推認できると主張する。一般に、アリバイの存否を確定できるような直接証拠がない場合においても、ある範囲の関係者のアリバイ供述がある時点から急に一定方向に変遷し、その理由が余りにも不合理な場合には、その変遷状況自体から意図的な虚偽供述であることが推認できる場合もあり得ることは否定できない。検察官は、本件における右関係者の供述変遷がこのような推認の根拠となると主張するかのようである。しかし、人の記憶は常に明確であるとは限らず、あいまいな部分も多いのであるから、たとえ供述内容に変遷があったとしても、その変遷の理由が記憶喚起であったり、勘違いであったりすることを軽々に否定してしまうことはできず、また、変遷前の供述が真実であるのか、変遷後の供述が真実であるのかも、その供述内容だけから判断するのはなかなか困難である。本件における右関係者の供述変遷については後に個別に検討するが、弁護人も主張するように、その供述変遷は統一的に一定方向に変遷したとはいい難い部分も多く、それぞれに変遷の理由が説明されているのであるから、これを合理的と考えるか不合理と考えるかは微妙な問題であって、右変遷は、それ自体から意図的な虚偽供述を推認できるようなものではない。

(5) このように、「アリバイ工作」を推認せしめるとして検察官が掲げる根拠ははなはだ弱いといわざるを得ないものであるが、それ以上に、この「アリバイ工作」には、主張自体に常識的な見地から根本的な疑問があることを指摘しておかなければならない。すなわち、検察官が主張する「アリバイ工作」につき、原判決が第八の四1(二)(3)(317頁)において、「そもそも、事件直後においてはXの行方不明の時刻などは明らかになっていない段階であって、事件直後からアリバイの主張をしなければならないような事情はうかがえないのである。考えられるとすれば、B谷が、澤崎の共犯者であるとか澤崎が犯人であることを知っている場合であるが、例えば、澤崎が犯人であることをいつどのようにして知ったのかなど、それをうかがわせる具体的な主張もなければ、証拠もないのである。」と批判するのに応じてか、検察官は、当審に至って、「B谷における澤崎の犯人性の認識については、被告人が管理棟事務室から出発した後間もなく澤崎は同室を出ており、このことを認識していたB谷が、その時間帯にXが行方不明となったことを知り、さらにはXが澤崎の当直勤務日に行方不明となったY子の死体とともに同一浄化槽内から死体で発見されたことも知れば、澤崎の犯人性を認識し又は澤崎から犯行を打ち明けられたということは、十分あり得ることである。」旨、主張をある意味で鮮明にしている。アリバイ工作に関する原判決の前記指摘は誠にもっともなことであり、検察官としては主張だけでも明らかならしめる必要に迫られたと考えられるが、B谷において、検察官のいう状況のみで澤崎がX殺害の犯人であるとどうしても認識できるのか、澤崎がどうしてB谷にX殺害を打ち明けることになるのか、いずれについても納得できない。この時点では、B谷を含めて誰もが澤崎を怪しいなどと思ってもいなかったのではなかろうか。当初は、むしろ用務員や園児が疑われていたことが証拠上窺われる。また、検察官は、死体発見の事実をも指摘しているが、死体が発見されたのは一九日午後九時三〇分ころである。それから後は園内が騒然となったであろうし、消防関係者や警察官も次々訪れている。B谷は死体の第一発見者として当然くわしい事情聴取を受けていることも認められる。そのような状況下でB谷がE田に対し澤崎のためのアリバイ工作を働きかけることが可能であろうか。検察官は、B谷がE田に対して、いつ、どこでアリバイ工作をどのように働きかけたかについて、ついに明らかにしていないが、もし死体発見後をいうのであれば、そもそもアリバイ工作をするようなことが不可能であるとはいえないとしても、現実にはほとんど考えられないといってよいであろう。さらに、検察官の当初からの主張によれば、澤崎は、Y子転落死の責任をカモフラージュするためにXを殺害したというのであるが、そのような澤崎が、いまだ何人が犯人であるか見当もつかない時期に、一同僚に過ぎないB谷に自分がX殺害の犯人であることを打ち明けるであろうか。B谷に打ち明けたなどという事実についてもちろん澤崎の自白はない。

また、検察官は、B谷が「アリバイ工作」の中心であり、まず澤崎に指示し、次いでX殺害事件直後の段階でE田に同調するよう働きかけたと主張するが、B谷及びE田は、単に澤崎と職場を同じくする者に過ぎず、これに対して問題となっている犯罪は、自分達が通常接して世話をし保育している園児の殺害である。直前まで協力して捜索表を作成しようとするなどY子の行方を捜していた澤崎が別の園児を殺害した犯人であると知り、若しくはその可能性が強いと考えたならば、驚愕すると同時に澤崎に対する非難ないし憤りの気持ちがまず生じ、アリバイ工作など考えられないはずであり、しかも普通の社会生活を送っている人間であれば、検察官が主張するようなX死亡事件についての状況で、アリバイ工作をしたからといってそれが成功すると思わないのが通常であろう。所論は、アリバイ工作といってもその基本は「澤崎はXの行方不明を知らされるまで終始管理棟にいた。」との事実を作出するだけでよいといい、確かにそのこと自体な間違いではないが、検察官の主張によれば、E田は午後七時五〇分ころから午後八時二〇分ころまでB木と一緒に若葉寮職員室にいたというのであるから、B木の存在を無視してE田がそのようなアリバイ工作に加担できるはずがないし、外ならぬ園児を殺害した犯人を逃がすために虚偽の事実を作出するという以上、よほどの動機ないし事情がなければならないことはもちろんのこと、さらに後に工作が発覚しないように綿密な打合せなしには不可能である。アリバイ工作をしてアリバイを立証するための証拠を作り出し、これを信用してもらうなどということは、それほど簡単なことでも易しいことでもない。その上、自己のアリバイ工作加担が明らかになれば、これが証拠隠滅にかかわる罪として立件されるか否かはともかく、社会的には殺人の共犯の如くに苛烈な非難を浴びることは明らかである。本件証拠にかんがみ、まずB谷についていえば、当時指導員として熱心に職務を行っていた者であり、E田も真面目な人柄で、職員の人望もあり、熱心に園児の養育、育成に携わってきた者である(この点についての反証は存しない。)。前記のような心情、危険性にもかかわらず、あえて澤崎のアリバイ工作に加担するに見合う深い利害関係や動機が考え難いのである。ただ、無理に「アリバイ工作」への加担の動機を考えようとすれば、B谷及びE田において、澤崎が犯人でないことを知り、あるいは犯人ではないと信じていたことから、無実であるにもかかわらず逮捕された澤崎への同情等で、記憶にないことをある旨述べたり、事実を一部異なって供述することがあり得ないことではないかもしれない。しかし、検察官の主張によるB谷らの「アリバイ工作」は、犯行直後からなされているというのであり、X死亡事件の全体像も澤崎に嫌疑がかけられているかどうかもわからないうちに「アリバイ工作」に加担することは、そのような無罪を信じているが故に事実を曲げるというのとは全く異なる。

一方、検察官は、被告人について、澤崎の逮捕後、自己の出発時刻や電話の順序が、澤崎のアリバイについて重要な意味を持つことを認識し、かつ、園長としての立場から、B谷の主張どおり澤崎のアリバイが立証され、捜査官が澤崎に対し嫌疑を持たなくなることを強く望み、澤崎のアリバイについて確信がないままB谷に追従した言動をとっていたが、意図的に速めて運転した走行実験の結果がB谷の主張の裏付けに利用できることがわかり、B谷の主張に合わせて澤崎のアリバイを主張しようと決意するに至ったとする。しかし、被告人は、当時A山学園の園長として、今回の園児死亡事件現場の最高責任者として職務を行っていた者であり、少なくとも周囲の者からみて特段問題とされるようなことは全く見当たらない。確かに、被告人は、当時、園の関係者が犯人であって欲しくないとの気持ちを有していたことは認められるが、それだけの理由で真実を誤らせることになってしまうおそれのあるアリバイ工作に加担し、全く記憶にないことを証言しようと決意するであろうか。アリバイ工作など簡単にできるものでないこと、そして工作に加担したことが明らかになれば社会的には殺人の共犯の如くに苛烈な非難を浴び、その社会的地位を失うであろうこと被告人についても全く同様にいえる。

さらに、原判決が、アリバイ工作をするのであればB木や電話の相手方などにも働きかけなければその効果が期待できない旨判示するのに対して、検察官は、アリバイ工作などというものは、相手方との特別な関係がない限り、相手方が易々と応じるものではなく、誰彼なくむやみに虚偽の供述をしてほしい旨依頼をすれば、アリバイ工作をしていることが露見する危険性が高く、おいそれとできるものではないことは常識である旨反論している。アリバイ工作がそれほど危険で慎重さが要求される事柄であることを指摘する限りにおいて、検察官の反論は正当と評価できるが、それは、B谷らがE田に対して「実は澤崎がXを殺害した可能性がある(またはX殺害の疑いがかけられそうである)が、そのアリバイのために協力してほしい。」と働きかけることについてもほぼ同様のことがいえるのではなかろうか。検察官の主張には矛盾があり、その不合理は、検察官が主張する「E田が反権力的である。」とか、「B谷と親しい間柄である。」というようなことで解消できるものではない。

検察官のアリバイ工作への加担論は常識的にみて問題がある。

(6) 以上みてきたように、検察官の主張する「アリバイ工作」は、それ自体が立証されているものではなく、むしろ、その存在には大きな疑問がある。

なお、ここで付言するのに、既にみたように検察官は被告人の本件偽証は、澤崎のX殺害事件に関するアリバイ工作の一環としてなされたと位置付け、右アリバイ工作はB谷及び澤崎が中心となって画策し、E田及び被告人がこれに同調して協力したというのである。B谷は、国賠訴訟での原告本人であるから、そこで虚偽の供述をしても法律上偽証罪は成立しないとしても、被告人若しくはE田について偽証罪が成立するのであれば、検察官の主張からすればB谷は少なくともその共犯になる可能性があるのではなかろうか。供述といっても、犯情において被告人やE田より重いことも明らかである。しかるに、B谷を検挙することもなく、それより犯情が軽いと思料される被告人やE田を逮捕、勾留した上、偽証罪で起訴しているが、訴追するか否かの判断はあらゆる事情を考慮した上でなされること、しかもその決定権がすべて検察官に委ねられていることを十分考慮してみても、本件の事件処理は社会正義あるいは公平の見地からみて、いささか権衡を失するのではないかとの感を払拭することができず、同様の趣旨を述べる弁護人の指摘はもっともである。

3  E田の行動について

(一) E田は終始管理棟事務室にいたのか

(1) はじめに

前記アリバイ工作に関する検察官の主張の中で述べたとおり、検察官は、E田が午後七時五〇分ころからXの行方不明が知らされるまでは若葉寮に行っていた旨主張しているが、その根拠となる直接的な最重要証拠はB木証言である。そして、若葉寮にXの行方不明が知らされるまでE田が同所にいたという点ではB川証言もその証拠となり、このB川が若葉寮に知らせに来たことは若葉寮職員の供述でも裏付けられるとする。

(2) B木の証言

B木は、確かに検察官主張のように、自己が午後七時五〇分ころに若葉寮職員室に行ったときE田が在室しており、そこへB川がXの行方不明を知らせに来るまでの間E田はずっと同室にいた旨の証言をしている。しかしながら、B木証言は、昭和四九年四月当時の供述内容を変遷させて証言したものであるから、B木が立場として第三者的であるというだけで変遷後の供述である証言が信用できることにはならない。そしてB木証言を検討すると、その変遷理由の合理性の面からも、変遷後の供述である証言内容の面からも、その信用性が高いとはいい難い。

すなわち、供述変遷の面でみると、例えばB木が若葉寮職員室に入った際のことについての、同人の昭和四九年四月当時の警察官及び検察官各調書の記載は、これらを素直に読めば、「自分が職員室に入ったときにE田は職員室にいなかったと記憶しており、その旨警察官にも述べたが、その記憶は明確なものではなかったため、検察官から確認されると、もしかすればいたのかもしれないとも述べた。」というように理解するのが相当というべく、B木が証言するような、「自分自身はE田がいたとの記憶があり、警察官にもその旨述べたが、警察官からE田はいなかったのではないかと言われたために供述をぼかした。」記載とは考え難い。仮にB木証言のような状況ならば、調書の記載方法が逆になるはずであり、当時の捜査状況から考えても、B木においてE田が若葉寮にずっといた記憶がある旨述べているものを、E田本人のこれに反する供述があるからといって捜査官の側でわざわざ右調書のような記載にすることは考え難い。また、Xの行方不明を知らされた状況に関する供述変遷を、「供述をぼかした。」ということで説明しようとするのであるが、Xの行方不明をB川が知らせに来たという明確な記憶があれば、知らせに行ったか否かはっきり覚えていないというB川の言葉を聞いたからといって自己の供述をぼかす必要はない上、昭和四九年四月一五日付検察官調書(刑訴法三二八条書面)において、知らせに来た女の声につき、「私はB川の声だと思っていたが、後でB川に聞いたところB川はそのころ青葉寮の方にいて若葉寮の方には来ていないということだった。」旨、自己の記憶自体がはっきりしない趣旨の供述をしていること、また、昭和四九年当時の供述は、B谷と女の先生との来室順序が逆になり、女の先生の声の後にB谷がさらにXが来ていないかと尋ねて来た内容になっていることを考え併せれば、これらの点に関して明確な記憶があったにもかかわらず「供述をぼかした。」という右説明が成り立たないことは明らかである。そして、このような供述変遷理由の説明が、昭和五三年当時の検察官調書において、「警察官の話に幻惑された、警察官に合わせた。」という形で始まっており、昭和五二年当時の供述変遷の際には述べられていないことも、当該調書においてX死亡事件のころのE田の在室に関する記憶が明確に記載されていることとの対比で不自然さを免れない。

また、供述内容の面でみると、右に述べたように、B木は若葉寮職員室にE田が終始いた明確な記憶があると証言するのであるが、終始いたはずのE田の行動については極めてあいまいであり、昭和五二年、五三年の供述調書と対比しても多くの点でその内容が変遷している。昭和五二年以降の供述に具体性がなく、証言時にもあいまいなのは、時間の経過からやむを得ないという面もあるが、現実になされた証言内容は、時間の経過により記憶が薄れたというようなものではなく、多くの事実関係、特に昭和四九年当時の取調べ状況についてはほとんど記憶がないとしながら、E田の行動中、特定部分の細かな具体的事実については証言し、これについて断定的に述べたかと思うと推測によるかのように証言したり、事実関係自体を変化させたりしているのである。事実に関して記憶があるとしていったん断定的に述べた部分においても変遷しているのであって、一体どの証言が推測であり、どの証言が本当に記憶のある部分であるのかが判然としない。E田がいたという記憶が本当に残っているのであれば、その根拠となる何らかの基本的な場面が記憶にあってしかるべきであるのに、午後八時ころのE川電話の際のやりとりと、「何か手伝いましょうか。」というやりとり以外は、具体的場面で記憶が残っていると評価できるようなものはない。例えば、B木は、E田の行動につき、B木の隣に座って行動記録をつけていたと思うと証言しているが、B木もカルテ(行動記録)の整理をしていたというのであり、そうだとすれば、その作業のために必要とされる業務日誌のやりとりなどについて記憶があるはずであるのに、これについて全く供述がないなど、裏付けを欠いた不自然な証言に終っている。

ところで、E田も、二人の間で前記二つのやりとりがあったことを認めており、「何か手伝いましょうか。」と言われたのは糊を取りに若葉寮職員室へ行った二回目のときのことであり、それ以外に記憶に残るような会話を交わしていない旨供述する。検察官は、両名はそれほど親しい間柄でもなく、B木は退職間際で忙しかったから、E田が若葉寮職員室にずっといたにもかかわらず会話が少なかったとしても不自然ではないというが、もし午後七時五〇分ころから午後八時二〇分ころまで終始同じ部屋にいたのであれば、やはり二人の関心の的であるY子捜索のことなどについてもっと会話があってしかるべきだと思われる。B木とE田の両方にとってはっきりしているのが右二つのやりとりだという事実は、はからずも、E田は終始若葉寮職員室にいたのではなく用事で二回だけ同室を訪れ、E田が供述するように、それぞれその際前記のような会話を交わした事実を裏付けるものとみることもできる。

さらに、証人尋問調書を読むと、B木証言が質問に対する応答の仕方などそれ自体において真摯さに欠けると思われる部分があり、供述経過に照らしても、質問者に対して迎合しやすいことなど全体としての供述態度に問題があって、B木が、証言すべき結論、すなわちE田が終始在室していたという具体的事実による裏付けを欠いた結論に固執して証言しており、真に記憶に基づいて証言してはいないのではないかという疑問は、これを否定することができない。

右に述べたような理由から、B木証言に関しては、その証言自体、かなり信用性が低いものといわなければならない。

(3) B川の証言

次に、B川証言をみると、同人は、この点について「若葉寮に行ってXの所在を尋ねた際、職員室にB木のほかB谷及びE田がいた。」旨証言している。この点の信用性は、Xの行方不明を誰が若葉寮へ知らせたかということとも密接に関連するが、B川の証言は、その供述の変遷の面からも、供述の内容の面からも信用性はやはり低いといわざるを得ない。何より、B川は、青葉寮の当直者であったため、X死亡事件直後から幾度も自己の行動について事情聴取を受け、午後八時過ぎにXの行方不明を知ってから午後八時三五分ころに副園長B海へ電話をかけるまでの間の出来事について、順序、経過時間をも検討しつつ詳細に説明していたことが窺われるのであるから、単なる一瞬の出来事や知覚ならばたまたま思い出せないことがあるとしても、自己が若葉寮にXの行方不明を伝えに行ったというような行動について、X死亡事件直後からの継続的な取調べにおいて思い出せなかったということは考えにくい。B川は、若葉寮へXの行方不明を知らせに行ったことを昭和五〇年五月の再現実験の際に思い出したと弁解するが、反対尋問において、この点について昭和五〇年五月の再現実験の約二か月後の同年七月一八日付警察調書(二通)及び同月一九日付検察官調書においては触れられず、X死亡事件から約三年も経過した昭和五二年の供述調書で初めて触れられているとしてその理由を尋ねられた際、納得できるほどの説明がなされていないのであって、右弁解は信用し難い。事の推移という観点からみても、B川は、澤崎から青葉寮にとどまっているように言われ、事件の状況が不明であるその時点において園児の安全確保のために施錠の確認をしたのであり、電話でも連絡できるのに不用意に青葉寮を離れるのは不自然であることも指摘されよう。

さらに、B川が、X行方不明当時の青葉寮宿直者であり、自分が犯人として疑われることを懸念していたこと、澤崎とB谷の両名を犯人であると疑い、両名に強い反感を持っていたことなどの当時の心情や、客観的な事実に反すると思われることでも、それを真実と思い込みやすく、いったん思い込むと容易に疑問を抱かず、断定的に供述する傾向があることが窺われる点なども、その供述の信用性の判断に当たっては念頭に置く必要がある。

なお、B川が若葉寮にXの行方不明を知らせに来たことは、若葉寮職員の供述によっても裏付けられているかのようにみえるが、Xの行方不明を誰から聞いたかについての各供述の経過をみると、C内は、当初「澤崎と思ったがB木かもしれない。」(昭和四九年四月二四日付検察官調書)、「澤崎らしい女性が私に向かって『X君がこちらに来ていませんか』と言った。私はその声を聞いて相手の女性がその声の特徴からかねて聞き覚えのある澤崎であることがはっきり分かった。以前検察官に違う趣旨を述べたのは間違いだった。」(昭和五〇年八月七日付検察官調書)旨供述していたのが、「澤崎かB川であった。」に変わり、さらに、声の特徴から識別したとしていたのに、「制服から考えるとB川である。」と変化し、D谷は、もともと「よくわからない。」(昭和四九年四月二三日付検察官調書)としていたのが「B川と直感した。」に変わったものであって、いずれもX死亡事件に近いころには知らせに来たのがB川であるとは供述していなかったどころか、中には澤崎であることがはっきりわかったとさえ供述していたことがあったにもかかわかず、なぜかB川の供述と同様に昭和五二年以降に修正されているのであって、これを素直に記憶喚起によるものとは考えにくい。

また、B木は当初からB川と述べ、後にはその顔までも見たと証言しているが、当初は声で判断したもので明確ではなかったとしているのであって、B川であるとの判断が必ずしも確実ではない。逆に、当初に供述していたことが窺われる、「声でB川と思ったが、B川に聞くと来ていないと言っていた。」という事実関係は、B木の判断違いであったとすれば単純に納得できる話であるが、事実B川が若葉寮に知らせに来ていたのであれば、B木から来たのではないかと確認されながら、なおもB川がその記憶を喚起できなかったということになるのであり、むしろ知らせに来たのが澤崎であることに整合するものである。

(4) E田の供述

そのころ基本的には管理棟事務室におり、その間、用事で若葉寮職員室へ行ったことはあるが、Xの行方不明は管理棟事務室で聞いたとするE田の供述は、同人に対する捜査復命書が存在するX死亡事件の翌日である昭和四九年三月二〇日の時点から一貫しており、特に、Y子捜索のための捜索表を作ろうとして紙を糊で貼っている際にXの行方不明を聞いたとの点は具体的であって、その供述中にはE田が若葉寮職員室にずっといたことを窺わせるものはない。確かに、管理棟職員室内での出来事の順序及び時刻並びに若葉寮職員室に行った回数が一回か二回か及び時刻等において種々の変遷がみられるのは事実であり、これらの変遷が実際は体験していない事実を供述しているために生じているとの見方もあり得ないではないであろう。しかしながら、実際に管理棟事務室にいなかったのに、これをいたように供述しようとする理由として検察官が主張するのは「アリバイ工作」である。「アリバイ工作」には、前記のとおり根本的な疑問があるが、特にここで問題にしているE田が管理棟事務室にいたか否かの点で考えると、犯行の全体像も判明しておらず、澤崎に嫌疑がかけられているかどうかもわからない段階のX死亡事件当日から翌日にかけて、B谷が、若葉寮にE田と一緒にいたB木の存在をあえて無視してE田にのみアリバイ工作を依頼し、E田も、B木が真実を知っていることを十分承知しながらB谷の依頼に応じたという現実離れした想定が必要となる点で大きな問題がある。そして、X死亡事件直後のE田の供述には、澤崎にとっては逆に極めて不利になりかねないような「被告人が出発した後に澤崎が管理棟事務室を出て行った。」旨の内容があることも、澤崎を庇うための「アリバイ工作」であるとの想定からはかけ離れたものといわなければならない。さらに、右アリバイに直結するE田の供述部分が内容的にも明確とはいえず、B谷の供述とも食い違っているなど、打合せをしたとは考えにくいことも、「アリバイ工作」の存在に対する疑問となり得る。他方、E田の供述の不明確部分や変遷は園児二人の死体発見による精神的衝撃から生じた記憶の混乱でも説明が可能であり、E田供述が一貫して前提としている管理棟事務室にいたこと自体を特に疑う事情はないというべきである。

(5) 被告人及びB谷の供述

また、被告人は、自分が管理棟事務室から出るまでE田が基本的には同室にいた旨一貫して述べており、B谷も、管理棟事務室にXの行方不明が知らされるまでE田が基本的には同室にいた旨一貫して述べている。この両名の各供述については、他の個別の点の信用性判断は後に改めて触れるとして、特にこの点に関する供述内容で不自然な点は存在しない。

(6) まとめ

右にみたとおり、E田が、午後七時五〇分ころ以降は若葉寮に行っており管理棟事務室にはいなかったとする点に沿うB木証言及びB川証言は、いずれもそれ自体信用性が低いといわざるを得ず、これに対して、基本的には管理棟事務室にいたというE田自身の供述は事件直後から最後まで一貫しているといえるのであり、その間に若葉寮に行ったのが一回か二回かについては変遷があるものの、B木証言やB川証言と比べれば変遷した根拠にもそれなりの理由があり、事の推移からいっても自己の行動の説明に無理がなく、信用性が認められる。これに、そもそも、E田が管理棟事務室に入ったのは、B谷及び澤崎からY子捜索のための捜索表を作ることへの協力を求められたためであること、そのE田が一人で若葉寮職員室へ戻り、B木証書の述べるように園児の行動記録をつけるというようなことはその時点での作業や行動の流れとしても必然性に乏しいことも考慮すれば、これまで述べた以外の争点に関する証拠関係を検討するまでもなく、この点に関してはE田が基本的には管理棟事務室におり、Xの行方不明も同室内で聞いたものとほぼ認定してよい。

(二) E田が若葉寮に行ったのは一回か二回か

(1) はじめに

前記(一)項で述べたとおり、E田は、午後七時三〇分ころからXの行方不明を知らされるまで基本的には管理棟事務室にいたと考えるのが相当であるとしても、同人は途中若葉寮職員室へ行ったことがあるので、それが一回か二回かを次に検討する必要がある。すなわち、E田が、午後八時ころに若葉寮におり、ちょうどその際にE川電話があったことは間違いなく、そしてまた、E田が被告人の神戸新聞会館への出発後に捜索表を作成するための糊を取りに行ったことは、E田自身の供述が一貫しているだけでなく、B谷もこれに沿う供述をしているのであって、その具体性からも、そもそもE田が捜索表作成を手伝うために管理棟事務室にいたという流れからも、事実であると考えられるため、E田が若葉寮職員室に一回しか行っていないとすると、E田が被告人出発後に同職員室へ行き、その時が午後八時ころであったことになり、結局、午後八時以前にC林電話があったことになるからである。逆に、これが二回であって、一回目がE川電話のころで、二回目が被告人出発直後であるとすると、一回目から二回目の間の時間はともかく、C林電話が午後八時は過ぎていた可能性が高いことになるのであって、E田が若葉寮職員室に行ったのが一回か二回かは重要な意味を持っている。

(2) E田の供述

そこで、この点に関するE田の供述をみると、同人の供述には変遷がみられる。すなわち、昭和四九年三月二五日付捜査復命書において、若葉寮職員室に二回行った趣旨の記載があるが、その後同年六月二〇日までに作成された捜査復命書並びに警察官及び検察官各調書には、これが一回である趣旨の記載がなされ、その後、捜査に非協力的な態度をとるようになった同年七月二日には、再び若葉寮職員室に二回行ったかもしれない旨の供述をし、昭和五一年の国賠訴訟の証言に至って、「何時ころかは覚えていないが、いなり寿司とバナナを取りに若葉寮職員室に行った。職員室にはB木がいて、電話をかけていたと思う。B木から意見を聞かれて答えた覚えがある。被告人が出て行った後に、もう一度若葉寮職員室に糊を取りに行ったことを覚えている。職員室にはB木がいて、何か手伝いましょうかと言われたが、結構ですというようなことを言った覚えがある。」旨の証言をし、差戻前一審公判廷においても基本的には国賠訴訟における証言内容を維持している。したがって、まず、この供述の変遷をどのように考えるべきかを検討する必要がある。

E田は、右の供述変遷の理由を、おおむね、「昭和四九年三月二五日の時点では、若葉寮に二回行ったことは覚えていたが、糊を取りに行った用事だけしか覚えておらず、紙袋を取りに行った用事は思い出せなかったため、警察官の事情聴取の際に、警察官からいろいろ言われ、『若葉寮に行ったのは糊を取りに行った一回だけでこのときB木が電語をしていたのだ。』と強く言われると抵抗できず、一回しか行っていないという調書のような記載になったが、澤崎の逮捕後、最後の検察官の取調べのころまでには、管理棟事務室の人だかりの中で恥ずかしい思いをして机の下から紙袋を取ったことの印象から、若葉寮へ紙袋を取りに行った際にE川電話があったことも思い出した。」旨供述している。この説明は、その内容自体供述の変遷経過を一応合理的に説明し得ているだけでなく、二回行ったことを思い出した理由も具体的であり、紙袋に入れていたいなり寿司等を出しそびれた状況、後にこれをD塚事務員の机の下から取り出したことなど特に不自然なところはない。とりわけ、一番最初のころの事情聴取の結果と考えられる昭和四九年三月二五日付捜査復命書に二回と記載されていながら、その後の調書等では一回になり、再び二回に戻ったという特徴的な経過について、警察官の証言を考慮しても、E田の述べるような経過が十分あり得ることとして考えられる点は軽視できない。

これに対し、検察官は、真実はE田が若葉寮にいたにもかかわらず前記澤崎によるX殺害事件のアリバイ工作のために管理棟事務室にいたことにしようとしてこのような供述変遷が生じたと主張する。しかし、若葉寮にいたという前提が採用し難いことは前記のとおりである上、アリバイ工作のための供述という観点でみると、真実は若葉寮へ行ったのが一回であるのに、二回と供述したというが、前記のとおり、二回行ったことが、既に、昭和四九年三月二五日付捜査復命書に記載されているのである。そして、この捜査復命書の内容は決して通り一遍のものでなく、E田の同月一九日の行動を順を追って詳しく記述している。すなわち、「事務室でお茶を飲んだ後で若葉寮の保母室へ行ったところB木が一人でいた。そのときの用事は思い出せないがすぐ事務所に引き返した。」旨記載された後に、被告人が車で出た後で糊を取りに若葉寮に行ったとなっており、捜査復命書が作成された時期がかなり早いことやその内容も相当に具体的であること、その後取調べ警察官に追及されて間もなく一回と供述が変わったこと、また、何より肝心の澤崎の行動について若葉寮から管理棟事務室に帰って来たとき澤崎はいなかったと供述している点等からみて、それがアリバイ工作のための供述であるとすると、説明が困難であるといわざるを得ない。このように、昭和四九年三月二五日の時点でかなり明確に二回行った事実を供述していることを、アリバイ工作とみることができないとすれば、未だ犯行時刻やE川電話の時刻もはっきりしておらず、E田においても取調べ警察官においても若葉寮に何回行ったかが澤崎のアリバイに関係することなど念頭になかったと思われるときに、E田は自らの記憶に残っている事実を素直に述べたものとみるべきであろう。犯罪捜査への影響を意識しないでなされた供述は、供述証拠であっても証拠価値は高い。この点は、同じ供述の変遷といっても前記B川の場合の変遷との大きな相違というべきである。

(3) その他の考慮要素

次に、他の管理棟事務室内関係者の各供述をみると、澤崎は、E田が糊を取りに出たことは当初から供述しているものの、本件公判廷では被告人出発前に出たことは記憶がないとし、被告人は、X死亡事件直後の供述調書等でこの点について触れたものはなく、国賠証言において自分がまだ管理棟事務室にいるうちにE田が一回管理棟事務室から出た旨、E田が二回若葉寮に行ったことに沿う証言をし、B谷は、当初は被告人出発後に糊を取りに行ったことのみ供述し、昭和四九年六月二四日付検察官調書において、被告人出発前にE田が一回若葉寮に行った旨を述べたが、その時期については、D原電話の後であったというだけで、いつごろのことか特定できず、用事も不明である。このように、関係者の各供述があいまいであることは、E田自身の二回若葉寮に行ったという供述の明確な裏付けがないことを意味するが、E田の用事が食べ物を取りに行くということで、部屋にいた者に断って行ったわけではなく、取ってきた食べ物も結局皆の前には出さなかったことからすると、これは周りの者の印象に残るようなことではないから、被告人、澤崎及びB谷の記憶があいまいなのも不自然ではなく、逆に検察官の主張する「アリバイ工作」を窺わせるものはないのであるから、これらのあいまいさによって、E田が若葉寮に二回行ったことへの疑いが生じるとまではいい難い。むしろ、少なくともB谷と被告人の供述は、あいまいな箇所が多いながらも被告人が出発する前にE田が管理棟事務室を出たことを供述する限りにおいて、E田が二回若葉寮に行ったことを示唆する点があると評価できる。

(4) まとめ

右のとおり、この点に関するE田の供述変遷は、それ自体が変遷後の供述の信用性を失わせるとはいえず、むしろ、その変遷経過の説明に合理性があり、変遷後の供述に沿うB谷及び被告人の供述も存在することからすると、右供述の変遷は、真の記憶の喚起によるのではなかろうかと思われる。

以上で認定したE田の行動に関して、所論は種々の観点からそれが不当な認定である所以を主張しているが、これらの点を十分考慮してみても、結論は左右されない。

4  相手方供述を中心とした各電話の時刻の検討

本件では、電話の順序、時刻が問題となっているところ、通話記録等の客観的証拠は存在しない。しかし、各電話の相手方は基本的に第三者といい得る者であるから、その供述により時刻が特定できるか否かを検討する。ただし、供述証拠である以上、それだけをみて信用性が高いか低いかの評価は可能であるとしても、他の証拠から認められる事実との関係を考慮することなく最終的に事実を認定することは危険である。

(一) D原電話

D原電話については、D原太郎証言並びにC岡九男証言及び同人の昭和五二年五月二日付検察官調書により、この電話の時刻が午後七時四〇分ころであり、通話に要した時間は五、六分前後であった可能性が高いと認められることができる。

(二) C谷電話

C谷電話については、原判決が第六の三1(53頁)において説示しているところであり、電話の相手方であるC谷は、平成六年の差戻後一審公判廷において電話をかけた時刻についてほとんど記憶にない旨証言しているところ、同人は、いわゆる第一次捜査時の昭和四九年八月二九日付検察官調書で、この時刻が午後七時五〇分ころから午後八時までの間である旨供述し、それがいわゆる第二次捜査時の昭和五二年二月九日付警察官調書において午後七時四〇分ころか七時三〇分台であると早くなり、さらに同年四月二七日付及び同年一一月一一日付の各検察官調書では、午後七時三〇分から午後七時五〇分ないし午後八時前ころまでとしか特定できない旨変遷している。

検討するに、右供述変遷の理由が必ずしも合理的で説得力があるとはいえないこと、昭和五二年二月九日付警察官調書における記載が、C谷本人の意思というよりも、警察官の示唆によって供述変更したことを窺わせるものであること、記録上の当初の供述である昭和四九年四月二一日付警察官調書(刑訴法三二八条書面)では午後八時ころと記載されているところ、これが作成された当時の捜査状況から考えると、C谷電話の時刻が午後八時近くであるというC谷の供述が捜査官の意向に反するものであり、C谷に記憶がないにもかかわらず捜査官が誘導するなどして供述をとる内容ではないと考えられることからすると、当初から記憶がなかったかのような変遷後の供述は採用できず、変遷前の供述である昭和四九年八月二九日付検察官調書の記載がC谷におけるC谷電話の時刻に関するより記憶に近い供述と考えるのが相当である。そして、もともと、かかってきた電話の時刻という一般的には記憶に残りにくい事実について約五か月後になされた供述であること、供述内容自体がある程度の推測をも交えたものであること、捜査官の影響を受けた可能性があるとしても最終的には記憶が明確でないとの供述に至ったことからすると、昭和四九年八月二九日付検察官調書の記載内容も、これを確実なものと考えることは危険ではあるが、その供述内容の具体性からみてある程度の信用性が認められるのであり、どちらかといえばC谷電話は午後八時近い時刻になされた可能性が高いと考えるべきである。

(三) D沢電話

D沢電話については、原判決が第六の三2(69頁)において説示しているところである。電話の相手方であるD沢六江及びD沢九男は、いずれも平成六年の差戻後一審公判廷において証言しているが、時刻についてはほとんど特定できていない。そして、D沢六江は、第一次捜査時の昭和四九年六月一七日付検察官調書において、この時刻が午後八時ころから午後八時一〇分ないし一五分までの間である旨供述していたのが、第二次捜査時の昭和五二年二月六日付警察官調書において、「記憶がないが、むしろ午後七時半過ぎころではないか。」旨早い時刻を供述するようになり、さらに同年四月の警察官及び検察官各調書(各二通)において、この供述変更の理由を説明した上、「午後七時三〇分から午後八時半ころまでの間で特定はできないが、むしろ七時半過ぎである可能性の方が強い。」旨供述している。また、D沢九男は、第二次捜査時の昭和五二年一月一一日付警察官調書において、「以前の八時過ぎの記憶との供述は誤りかもしれず、七時半から八時半までの間としかいえない。」旨供述し、同年五月及び一一月の警察官(各一通)及び検察官(二通)各調書においても時刻が不確かなことの説明をするなどして特定できないとの供述を維持している。

検討するに、D沢六江は供述変更の理由を一応説明してはいるものの、問題のD沢電話の時刻を早めたのは取調べに当たった捜査官の強い示唆が窺われる昭和五二年二月六日付警察官調書であって、右変更理由はその後の供述調書で説明されていること、その説明内容自体も微妙に変化し、真にその理由で供述を変更したと考えるには不自然なものであること、さらに、自らの記憶がなく、D沢六江の記憶がないことに沿うD沢九男証言ないし供述も、同人の第一次捜査時における供述と矛盾していることからすると、C谷電話におけるC谷証言ないし供述と同様、当初から記憶がなかったかのような変遷後のD沢六江及びD沢九男各供述は採用できず、記録上の当初の供述である昭和四九年六月一七日付検察官調書の記載がD沢六江におけるD沢電話の時刻に関するより記憶に近い供述と考えるのが相当である。そして、例えば通話料が夜間割引になる時刻等電話の時刻特定について根拠を示すなど、その供述内容の具体性からみてやはりある程度の信用性が認められるのであり、D沢電話は午後八時ころから午後八時一〇分ないし一五分ころまでの間になされた可能性が高いと考えるべきである。

(四) D岡電話

D岡電話については、原判決が第六の四(85頁)において説示しているところである。電話の相手方であるD岡十郎は、平成六年の差戻後一審公判廷において証言しているが、時刻については全く記憶がない。そして、同人は、第一次捜査時の昭和四九年六月二〇日付検察官調書において、明確な記憶がないとしながら推論も加えて午後八時半から九時ころまでの間になるとし、D沢が午後八時一五分ころというならばそれが正しいかもしれないと述べているのであるが、これはその内容からも時刻特定が極めてあいまいなことが明らかであり、D岡電話の時刻特定の証拠としてはほとんど意味がない。(もっとも、刑訴法三二八条書面として提出された同人の昭和四九年四月二一日付警察官調書には、「(電話の時刻について)別にメモ等もしていないので確実な時間は申せませんけれど、後で話します点からして絶体午後八時以前ではなく、私の記憶ではどちらかというと、午後九時に近いころであったように思います。」との記載がある。)

ところで、D岡が、D岡電話の数分後に西宮署へ電話をかけ、園児が行方不明になったとの届出があるか否かを確認したことが認められることから、西宮署への電話の時刻が判明すれば、これからD岡電話の時刻も特定できるといえるので、検察官はこの点からの立証を試みている。しかしながら、このD岡から西宮署への電話については、客観的な記録等による時刻特定の証拠は存在せず、電話を受けた西宮署の警察官池上のほか、警察官吉崎及び同切通が平成六年にした差戻後一審公判廷証言による立証である。そして、右警察官らは、記録に残っている検房終了の時刻、あるいは当日なされたレクリエーション旅行に関する話合いの状況と関連させて、D岡からの電話が午後七時五〇分過ぎとなる趣旨の証言をしているものの、その証言内容は約二〇年前の出来事に関することにしては余りにも詳細かつ具体的に過ぎ、電話時刻の特定に関する他の証人らがほとんど記憶を失っていることと対比して不自然である。X死亡事件後の事情聴取の過程で記憶が明確に固定されたと説明しようとしても、他の電話の相手方も事情聴取は受けているのであるし、事情聴取自体が事件から早くて約一年後、多くの者はX死亡事件後約三年を経過してなされているのであって、そもそも特異なX死亡事件当日の出来事とはいえ、その事件が現実化する前にかかってきた電話の状況という一般的に記憶に残りにくいと考えられる事実に関する供述であることに徴すれば、不自然さを払拭するだけの理由とはなり得ない。その上、昭和四九年四月二〇日付捜査復命書によれば、電話を受けた池上が、X死亡事件からそれほど日時が経過していない当時において、この電話の時刻につき「午後九時ころにA山学園に向けて出発した時刻より相当前だから午後八時ころではなかったかと思う。」というようにあいまいな根拠による供述しかしていなかったことが認められるのであり、これらの点に照らせば前記警察官らの証言をそのまま採用することはできない。

したがって、D岡電話については、ここまで検討した証拠による限り、時刻特定についての心証を全く形成することができないといわざるを得ない。

(五) C林電話

C林電話は、まさに本件偽証で問題となっている事項であり、C林は、差戻前一審においてこの電話は午後七時四〇分から五〇分ころの間にかけたものであり、通話時間が五分位であった旨証言している。これについては原判決が第七(177頁)において詳細に検討し、結論としてその主要な証拠であるC林証言の信用性に疑問がある旨判断しているのに対し、検察官は、C林証言が信用できる旨反論している。

当裁判所は、このC林証言の電話の時刻に関する部分については、ある程度信用性は高いものの、それはあくまでも供述証拠であって、特に客観的証拠による裏付けがあるわけではなく、しかも電話の時刻という通常記憶に残りにくい事項についての証言であることに徴すると、これが事実に間違いないという程の確実性を持つとはいえず、他の証拠と総合的に判断せざるを得ないものと考える。以下理由を説明する。

まず、原判決も認めるとおり、C林は、立場として第三者であり、澤崎にことさら不利益な事実を供述するような事情はない上、その証言内容は、具体的根拠を示してのものであるから、C林証言は証言として比較的その信用性を評価できる条件を備えていると考えてよい。問題は、原判決の指摘する点であるが、例えば原判決が第七の二3(一)(183頁)で指摘する感覚の不正確さについては、C林が電話を待って時間を気にしていたという点は事実であって、E野から勧められたとしても、それ自体が時間感覚を不正確にするものではなく、また、他の作業をしていたからといって時間感覚が狂うとは限らないのであるから、そもそもこれが過去の記憶に基づく供述であり、それも感覚によるものであるという限界はあるものの、原判決の指摘するような事情が、特にその記憶に対し積極的に疑問を挟む理由にはなるほどのものとはいい難い。また、原判決が第七の二3(二)(186頁)で指摘する国際会館のシャッターが閉まる時刻ないし保安係員が巡回する時刻等との関係で考えると、確かに供述の変遷ではあるが、この内容は類似しているとも考えられるのであり、保安係員がシャッターを閉めにくるからというC林の説明を、保安の仕組みをよく知らない警察官が調書に記載する際に正確性を欠く表現になった可能性も十分あり得ることである。さらに、「誤った前提による誤った記憶」という指摘については、自分に記憶のないことにつき誤った前提を与えられれば誤った記憶がもたらされることがあるといえるが、この場合、保安係員によるシャッターの閉鎖というのはC林にとって十分承知の事実のはずであり、これについて誤った前提で記憶がゆがめられることは考えにくい。さらに、保安係員に対する気遣いの点では、証拠に照らせば、保安係員がありがとう運動事務所の前のシャッターを午後八時に閉めることを日課とし、保安係員が右シャッターを閉める場合はありがとう運動事務所に人が残っていないかを確認し、人が残っている場合には声をかけていたことが認められ、ありがとう運動会員も午後八時を越えて仕事をすることも多かったにせよ、午後八時までに帰るのが原則と考えていたとみることは、それほど不自然ではない。そして、このような他人に対する気遣いは、個人の人柄にもかかわることであり、責任者であるE野がそのような気遣いをしていなかったのに、単なるボランティアの一員であったC林がE野以上に保安係員のことを気にかけていたというのはいささか過剰な気遣いとはいえるが、必ずしも不自然とまではいえない。

このようにみてみると、検察官が、「原判決は、電話時刻の推定理由に関するC林証言中の格別不自然ともいえないような些細な点をとらえ、ことさら過大に矛盾、変遷があるなどとしてその信用性を排斥しているのであるが、その証拠評価の姿勢は、本件において結論として無罪判決を書くための支障となるべき証拠は理屈をこじ付けてもその信用性を攻撃し、何とかその結論を合理化しようと腐心しているものであって、根本的に誤っている。」と決めつけているのは、疑問点は疑問点としてとらえる姿勢に欠け、問題であるが、原判決がC林証言への疑問として指摘する点のうちの一部は、これを強調することが相当でないといい得るものが含まれている面があり、後記走行実験の結果はともかく、これを除くその他の点を考慮しても、C林証言がそれ自体において信用性に疑いがあるとまではいい難い。しかし、原判決が第七の二3(三)(207頁)において指摘する点、特に、C林証言によれば、電話をした時刻と待ち合わせをした時刻との間には一時間ほどの間隔があることになるが、そうだとすれば、「早く来るんだなという感じ」とか、「ずいぶん早く来るんやなと思った」との感覚と整合しない点は確かに無視できるものではなく、その他原判決が第七の二3(四)(215頁)で指摘する昭和四九年当時に供述しなかったことをその後詳細に供述するようになり、それが証言では記憶がなくなっているという経過も、説明が不可能ではないものの不自然であることは否定できず、もともと過去の事実に関する証言であるという限界も考慮すれば、冒頭に示したとおりの程度の信用性と判断するのが相当であるが、その最終判断は他の証拠を検討した後に「11 客観的事実に関する結論的判断」の項で示す。

5  被告人出発後の澤崎の行動

検察官は、澤崎が、午後八時六分ないし九分ころにグランドでB野に目撃され、また、その直後にB川からXの行方不明を知らされたと主張している。澤崎が、被告人が神戸新聞会館に向けて出発するまで管理棟事務室を出ていないことは明らかな事実であるから、右の時刻は被告人出発時刻の検討に関係してくることになる。

B川が、グランドにおいて、澤崎から「どうしたの。」と尋ねられてXの行方不明を伝えたことは、両者の供述が一致しており、間違いのない事実と認められる。検察官が、この時刻を午後八時七分ころと主張する根拠はB川及びB野各証言であるが、B川証言は、当初の午後八時二〇分ころとの自己の供述を午後八時七分ころと変えた点で、にわかに納得し難く、信用性が低いといわざるを得ない。すなわち、B川がこの時刻を思い出したきっかけとする再現実験は、X死亡事件から約一年後に、例えば各園児の部屋に布団が敷かれておらず、押入にも布団がなく、肝心の園児も在室しないなど右事件当時の現場とは種々異なる点のある状況のものであって、その実験が当時の状況で行われたとしたら果たして時間的に同一の結果になったか疑問がある上、この供述はB川が若葉寮に連絡に行ったと述べていることと密接に関連しているところ、前記第二の三3(一)(3)で述べたとおり、若葉寮に連絡に行ったとの供述は極めて信用性が低い。B川が、事件直後からの事情聴取において午後八時二〇分ころと述べていたことからすれば、むしろ、これが事実であろうと考えられる。

また、検察官が主張する「澤崎がB川に声をかける前にグランド上でB野からXの行方不明を知らされた。」という点であるが、これは、右事実があったとするB野の供述とこれを否定する澤崎の供述が対立している。検察官は、B野供述が信用できる旨主張するところ、確かにB野供述のうち澤崎と会ったこと自体について信用できないような積極的徴憑はなく、あえて虚偽の供述をしているとも考え難いといえよう。しかし、B野が、事件直後においては自己に嫌疑をかけられることを恐れ、B谷や澤崎が自分を犯人に仕立て上げようとしていると想像し、同人らに対する強い敵意と警戒心を抱き、さらには一時はB谷に殺されるのではないかと真剣に悩むなどの一種異常な精神状態にあったことが窺われること、澤崎の行動についてあいまいだったり変遷している部分もあり、記憶が明確なものではなかったと考えられることからすると、B野が後の園全体での捜索時に澤崎を見た場面と混同した可能性を否定することができない。

6  D岡電話とD原電話の重複についての検討

電話の順序に関しては、差戻前一審以来取り上げられていたD岡電話とD原電話との重なりの問題がある。すなわち、検察官の主張によると、D岡電話の際にA山学園の回線が使用中であったことと、当時D原電話の他にA山学園の回線を使用する電話でD岡電話と重なる可能性のある電話が存在しないことの二つの事実から、D岡電話とD原電話が重なり合っていたことが明らかであり、これにより右各電話がほぼ同じ時刻であったことが証明されているというのである。

そもそもA山学園の電話は、原判決が第二の二5(12頁)に記載するとおり、いわゆる押しボタン式電話システムが採用されており、設置されている各電話機は、同学園の電話番号の一回線だけでなく、関連施設である北山学園の電話番号の一回線及びA寿園の電話番号の二回線もボタン操作により使い分けることができるようになっていたが、B谷の昭和四九年七月二日付検察官調書には、「D岡電話の際にはA山学園の電話回線が使用中であったため北山学園の電話回線を用いて北山学園の番号を伝えた。」と受け取れる供述記載があるところ、澤崎も同年六月二八日の取調べの際にこれに沿う供述をしており、また、B谷の手帳のうち、弁護団会議が開かれた昭和四九年五月三〇日の部分には、「詰まっていたから北山のTelでした。だから ラジオ大阪に北山のTelをおしえた」と記載されている。これらを素直にみれば、D岡電話の際にA山学園の回線が使用中であったと考えられやすく、そうだとすれば、それはD原電話以外に考えられないとする検察官の主張に結び付くことになる。

そこで検討するに、D岡電話とD原電話の重なりを考察する際に見落としてはならない事実がある。それは、D原電話については、B谷がこれをわざわざ青葉寮まで出向いてB野に取り次いでいるのであるから、B谷自身がD岡電話のとき点灯していた外線ランプがD原電話であるかあるいはD原電話でないか最もよく知り得る立場にあるということである。したがって、B谷がD岡電話をしていたときに重なっていた電話について、B谷自身はそれがD原電話であると知っていたか又はD原電話でないと知っていたかのいずれかであると考えてよい。検察官は、この前者であることを前提に、B谷は、D原電話によるA山学園の外線ランプの点灯が、午後八時ころと判明しているE川電話であるかのように事実をすり替え、これを澤崎のアリバイの裏付けに利用しようと考えたものと推認し、澤崎もそのB谷のアリバイ工作に合わせるべく、B谷の供述を裏付ける内容の供述をしたと認められると主張する。

しかし、D岡電話と他の電話との重なりなどは、B谷とそばにいた澤崎ら以外誰も知り得べきことではないから、B谷か澤崎が言い出さなければ外部にわかるはずのない事柄である。検察官の想定している状況を前提にすると、B谷にとっては、D岡電話が当時A山回線の電話と重なっていたことを捜査官側に知られれば、それがD原電話に結び付けられ、D岡電話が午後八時ころであったとの自分のそれまでのアリバイ工作が無に帰す可能性が高まるのであるから、基本的にはこの電話の重なり合いを表に出すことは危険と考えられるのであって、できる限りこれを隠そうとするのが自然であろう。仮に、弁護団会議等でE川電話が午後八時ころであるとの情報を得て、これがA山回線を使用していたと軽信し、これとD岡電話が重なっていたことにすればD岡電話が午後八時ころであったことの裏付けにできるというようなことを思いついたとしても、現実にD原電話と重なっていることを知っているB谷が、前記のようなはなはだしい危険をも顧みずD原電話とE川電話をすり替えるという新たなアリバイ工作に及ぶ可能性は低いと考えられるし、そのようなアリバイ工作に及ぶならば、検察官も主張するように、もしE川電話が北山回線を使用してなされていたとしたら、工作はたちどころに崩れてしまうのであるから、十分な時間と余裕があったと思われるB谷において(弁護団会議は昭和四九年五月三〇日で、B谷の検察官調書は同年七月二日付である。)、E川なりB木に、E川電話がどの回線でなされたのか一言確認するくらいの注意は払うのではなかろうか。検察官は、B谷はD原電話とE川電話のすり替えを行ったとしながら、E川電話がA山回線を使用したものではなかった場合に自らの工作が破綻を来すことを考え、A山回線を使用していたと明確に供述することを避け、推測であるかのように供述したものと考えられるとさえ主張しているが、そこまで深慮遠謀をめぐらすならば、E川なりにB木に対して確認をする方が余程容易で確実である。B谷の右検察官調書の内容自体、そのような深慮遠謀に基づくものとは到底思われない。検定官の主張は、右のようにB谷は十分考えをめぐらせた上ですり替えを企てたというが、前記のような危険極まりない電話の重なり自体を表に出したり、B木かE川に使用回線を確認していない軽率さが併存してしまうことになる不合理を説明できない。

以上のように、B谷がD岡電話のとき重なっていた電話がD原電話であることを知っていて、これをE川電話にすり替えようとしたが、たまたま予期に反してE川電話に北山回線が使用されていたため、その工作が失敗に終わった旨の検察官の主張には疑問が存在する。そこで、B谷の右検察官調書や手帳の記載が検察官が主張するようにしかみることができないものかどうかについて、もう一度見直す必要がある。

まず、A山回線が使用中であったとの点について、弁護人は、B谷の右検察官調書等が「D岡電話の際に外線のランプがついていたこと」と「D岡に北山の電話番号を答えたこと」のみが事実についての記憶としての記載であり、その他はB谷の推理推測を含む形で記載されているとして、「証拠上認められる同人の当時におけるこれらの時刻に関する認識状況からすると、事実としての記憶から誤った推論をした可能性があること、すなわち、B谷がD岡電話をかけた際には、A山回線以外の回線が使用中であったのに、B谷において、後にE川電話が同じ時刻ころに存在したことを知ったため、使用中であった電話がE川電話であると推理し、E川電話がA山回線を用いたものであるとの誤った認識から、A山回線が使用中であったとの結論に至った可能性があることなどを考慮すれば、A山学園の電話回線が使用中であったと認定することはできない。」旨、さらに、「当時、A山学園の電話回線が外部からつながりにくいおそれがあったから、B谷がA山学園の電話回線を使用しながら、あえて北山学園の電話回線を教えた可能性もある。」旨の主張もする。

確かに、弁護人の主張によれば、B谷は午後七時四〇分か四五分ころD原電話を青葉寮のB野に取り次ぎ、そして、午後八時ころD岡電話をかけたというのであり、そうだとすれば、B谷にとってD岡電話の時点ではD原電話などは自分が一五分か二〇分前ころに済ませた過去の出来事になっていて、既に念頭になくなっていた可能性が強いといえるし、B谷もその旨本件の公判廷で証言している。そのようなときに電話の時刻特定が問題とされ、その一つの判断要素として、E川電話が午後八時にかけられたとの情報を得て、時間帯からいってこれがD岡電話と重なっている可能性があるとすると、できればD岡電話が午後八時ころであることの裏付けになればとの願望を持ったとしても何ら不思議ではない。B谷において、D岡電話の時刻を証明して念願である澤崎のアリバイ証明に役立てたいと考え、あれこれと想像や推測をたくましくして供述することは十分考えられるが、それは検察官のいう電話のすり替え工作とは全く異質のものである。検察官は、この点につき、B谷が本件公判廷で、同人が検察官に供述した内容を覚えていないとか、D岡電話はA山学園回線を使用し、電話の相手方にもA山学園回線の電話番号を教えた旨証言しているのは、前記B谷の検察官調書や手帳の記載に照らし、明らかに虚偽である旨主張するが、右のように、B谷が、D岡電話とE川電話との重なりが立証できたらこれまで主張していたD岡電話の時刻が裏付けられるとの自らの願望のもとに想像や推測をまじえてつい述べたところが、その後逆に検察官側からの攻撃材料にされてしまい、しかるにこれに対して有効・適切な反論ができなかったため、そんなはずはないのにとの困惑からそのように証言してしまったと考えれば、理解できないほどの弁解ではなく、虚偽を述べたとまではいえない。前記B谷の検察官調書と手帳の記載そのものの見方としては、検察官の主張の方が一見素直な見方であることは否定できないが、それが決定的なものであるとまではいうことはできず、他の証拠をも総合して考えれば、「D岡電話の際にA山回線が使用中であった。」との供述内容が事実ではないと考えることも可能というべきである。

次に、検察官がもう一つの根拠とする、「D岡電話がなされた当時、D原電話の他にA山回線を使用してD岡電話と重なる可能性のある電話が存在しない。」という事実が認められるか否かをみてみる。この点については、検察官が、A山学園、北山学園、A寿園及びA山ハウス等の各施設に当時勤務していた者の供述によりこれが立証できる旨主張しているので、各供述を検討すると、青葉寮男子保母室及び若葉寮職員室の電話機については、D岡電話があったと考えられる時間帯において青葉寮男子保母室でのD原電話以外に使用されていなかったと認めることが可能であるが、他の電話機については、関係者が初めて供述を求められたのがX死亡事件から約三年後であること、電話をかけたか否かという事実自体それほど記憶に残るような特異な事実ではないことなどからして、これが存在しなかったといい切れるものでない。たまたまD岡電話と重なるような時刻の電話が、それもA山回線を利用してなされた可能性はそれほど高くないとはいい得るものの、明確に否定できない以上、他の電話の有無は不明といわざるを得ない。

以上によれば、B谷の検察官調書における供述及び手帳の記載が検察官主張のような状況でなされたと考えることには疑問があり、同供述及び記載のなされた経過が必ずしも明らかではないものの、これをもってD岡電話の際にA山学園の回線が使用中であったとまで断定することはできず、また、A山学園の回線を使用した電話がどの程度あったかも不明であり、したがって、D原電話がD岡電話と重なっていた可能性についても一概にいえず、検察官主張のように決定的なものとは到底いえない。

7  走行実験について

走行実験については、原判決が第七の二4(219頁)において判断を示しているが、再度検討する。

まず、第一に、この走行実験の結果から、被告人がA山学園を出発してから神戸の新聞会館に着くまでに要した時間を推認することが相当か否かである。原判決は、一回目の走行実験は、正確性に問題があるものの、二、三回目の走行実験については、検察官が所要時間を測定する目的で行ったものであり、その時間帯もX死亡事件当夜と同じころ(ただし、同事件が火曜日なのに対し、実験は火曜日と金曜日に実施。)であって、二日とも同じ所要時間であったことからその信用性は高い旨判断しているところ、この判断は支持できるものと考える。

これに対する検察官の反論の一つは、「走行実験の結果をもってX死亡事件当夜の走行時間とほとんど変わらないものと認定するためには、被告人において同事件当夜の走行速度、運転方法等を記憶し、かつこれを正確に再現したことが明らかとならなければならないのに、走行実験が行われたのは同事件から三か月後であって、道路及びその交通状況が同事件当夜と同一であったか否かは全く明らかではなく、被告人自身も同事件当夜の道路及び走行の状況を正確に記憶していたか極めて疑わしい。」という点である。しかし、まず、走行した道路が同事件の日と同一であったことに疑いを挟む事情は見当たらず、交通状況については、確かに同事件当夜と同じであることの確認はできないものの、平日の同じ時間帯であれば特段のことがない限り通常それほどの違いはないと考えられる上、被告人自身が同事件当夜と交通状況が異なる旨述べなかったのはもちろん、走行実験に立ち会った捜査官も、特に実験に差し支えがあるような状況を感じなかったからこそ実験を実施して証拠化しているのであるから、この走行実験がもともと所要時間を計測してみようとの捜査官の考えの下に行われたという経緯にも徴すると、交通状況が大きく異なる可能性は低いと考えてよい。この点、被告人は、被告人質問において、「検察官の二回目の走行実験の後に、立ち会った刑事部長の検察官が『園長、あなたが言っている時間に学園を出ていますね。』と発言した。」旨述べているが、このような趣旨の発言をしたことについて検察官の側から特段の反証もなく、この事実は、当時の検察官が、走行実験の結果が判断資料として相当なものであると考えていたことを示す発言として無視できない。また、検察官は、被告人自身が当夜の走行状況を正確に記憶していたか否かを問題にするが、人の運転の習性は、特に意識しない限りおおむね一定しているといえるのであって、走行する道路が同じで交通状況も同じであれば、ほぼ同様の走行状況になると考えて差し支えないというべく、走行状況の記憶を問題にする余地は少ない。

検察官の反論のもう一つは、「被告人が澤崎のアリバイ証明のため、意図的に速度を速めて走行しようとした疑いが極めて強い。」というのである。しかしながら、走行実験は、捜査官が同乗して行われているのであり、被告人が不自然に速く走行すれば当然その点を指摘されるはずであり、そのような指摘がなかったのであるから、通常考えられる走行だったと推認すべきである。問題は、被告人の同事件当日の運転が逆に遅かった場合であるが、同事件当日は、被告人はC林との待ち合わせ時刻に間に合うのか心配して急いでいたのであるから、その可能性もほとんど考えられないといってよい。

してみると、検察官の反論は理由のある批判とはいい難く、約一九キロメートルの距離を同じ時間帯に二度走行していずれも出発から到着まで三三分であったという走行実験の結果は重く、検察官が先に主張するような一般論をもってこれを軽視することは到底許されない。この結果が前記C林証言の中の、「早く来るんやなと思った」とのC林の感覚に沿うことも偶然の一致とはいえない符合である。なお、警察官による一回目の走行実験の結果が二回目、三回目の実験結果よりも遅い四〇分であったことは、右実験が午前中に交通ストライキが行われた日の昼間に実施されたことからすると合理的に説明できるのであり、それでも七分しか遅くなっていないということも考慮要素の一つとなる。

なお、被告人の新聞会館到着時刻については、原判決が第七の二4(二)(222頁)において被告人の供述による午後八時五〇分とC林の証言による午後八時四三分ないし四四分とを比較検討し、どちらとも特定できない旨の結論を示しているところ、確かに断定することは危険であるとしても、待ち合わせ時刻に間に合うかどうか気にしていたはずの被告人が、X死亡事件からわずか三日後の昭和四九年三月二二日には(午後八時四七分ないし四八分の可能性もあるものの)午後八時五〇分という時刻を捜査官に供述し(同年六月一七日付捜査復命書)、その後同年三月二六日付捜査復命書、同年四月二三日付警察官調書、同月二六日付検察官調書において一貫して午後八時五〇分と供述しているところからすれば、この被告人供述はかなり信憑性が高いと認めてよく、被告人到着時刻は午後八時五〇分ころの可能性が高いとみるべきである。

8  電話の順序に関する管理棟事務室内関係者の供述について

(一) はじめに

国賠訴訟以来、B谷及び被告人は、「午後七時四五分のD原電話が最初であり、その後C谷電話、D沢電話、D岡電話があった。」旨供述し、E田及び澤崎は「電話の順序についてはあいまいな記憶しかない。」旨供述している。これらの供述は、検察官主張事実に反するものであって、それ自体が検察官主張を裏付けるものになり得ないが、検察官は、右各供述の変遷状況等をみれば、これらがB谷に同調して虚偽を述べたものであることが明らかであるとし、むしろ、これらが虚偽であること自体から、又は、右の者らの当初の供述内容から、検察官主張事実が真実であることの裏付けとなり得るかのような主張をしている。以下においては、右検察官の主張を検討する。

(二) 被告人の供述

被告人の、電話の順序に関する供述の経過は、原判決が第八の三2(一)(238頁)及び(二)(240頁)に記載するとおりである。そして、被告人は、記憶喚起の過程を、本件公判廷において「昭和四九年五月五日に退職して仕事を離れた後に、一生懸命事件を振り返ってみて、だんだん電話の順序を思い出した。」旨説明し、その詳細は、原判決が第八の五2(一)(2)(380頁)に記載しているところである。

この電話の順序について被告人がする記憶喚起過程の説明は、それが真実であるか否かにわかに判断することはできないが、一応の説明をなし得ているということができ、これが自然であり合理的であるとの原判決の判断に特に問題はない。これに対し、検察官は、右説明が不自然かつ不合理であるとして種々の主張をするが、それらはいずれも採用し難いものである。以下説明する。

検察官は、まず、「被告人は、澤崎逮捕後には電話順序が非常に重要との認識を持つようになっており、その中で、B谷からD原電話が最初でその後に大阪放送関係電話があった旨の説明を聞き、警察官からはD原電話が午後七時四二、三分であることを前提に記憶喚起するよう求められたというのであるから、真実D原電話が最初であってその後に大阪放送関係電話がなされたとの体験を有していれば、捜査段階においてその記憶が喚起できないはずがなく、逆に、退職後に、何の新たな情報もきっかけもなく思い出すのは不自然である。」旨主張する。しかし、人の記憶喚起過程は単純なものではなく、あるきっかけがあれば必ず一定の記憶が喚起されるという関係にはない。特に、被告人の場合は、X死亡事件直後はXとY子が殺害されたという極めて重大な事件による精神的衝撃の影響があること、捜査段階当初においては園長という責任のある立場で多忙であったと認められること、退職後はその環境が大きく変わったことからすれば、被告人の説明がそれ自体不自然であるとはいい難い。

また、検察官は、被告人が、「B谷の説明は自分の記憶と必ずしも合っていなかったので、捜査官には自分の記憶で供述した。」との供述をしている点をとらえて、これは、被告人の「電話についてあいまいな記憶しかなかった。」との供述が真実ではなく、むしろ、B谷の説明とは反対の「放送依頼の電話の後にD原電話があった。」との記憶があったことを意味するものであるとし、そのことは、その趣旨の供述記載がある昭和四九年三月二八日付捜査復命書によっても裏付けられる旨主張する。しかし、前者についていえば、「必ずしも」という言葉自体がその結論のあいまいさを示している上、「記憶と合っていない。」とは、まさにその記憶があるわけではないということしか意味しないのであって、検察官の主張するようにB谷の説明に反する記憶がある場合を含むことはもちろんであるが、被告人の説明するようにどちらの記憶も明確でない場合(全くの白紙というよりも、何らかの記憶があることは意識できるが、どちらの記憶であるか十分に想起できないような状況というべきであろう。)もこれに含まれ得るのであって、そのような言葉の一端をとらえて、当時の被告人の記憶状況を推認することはできない。むしろ、問題となり得るのは、そのときの思考過程まで具体的に記載され、実体験であるかのようにみえる昭和四九年三月二八日付捜査復命書の記載であるが、これについては、原判決が第八の五2(二)(1)(389頁)の中で述べるように、その復命書の記載内容自体が、前後の被告人の供述と矛盾した理解困難なものであって、一見すると実体験のようにみえる記載も、単なる思いつきによって述べた推理がたまたま捜査復命書に記載されたと考える方が自然なものである。

さらに、検察官は、「被告人が、国賠訴訟において、『電話の順序については昭和四九年四月二三日付警察官調書作成の際の事情聴取時にも国賠証言どおりの記憶を喚起していた。』旨の証言をし、本件公判廷において、『国賠証言のときは電話順序について右事情聴取時にも思い出していたと記憶していたが、逮捕されて検察官から取り調べられる中で当初からの記憶と思っていたことが違っていたことが分かった。』旨の供述をしているが、これは矛盾しており、国賠証言の虚偽性を示すものである。」と主張する。すなわち、被告人の公判供述による記憶喚起過程である、「昭和四九年当時、電話順序が澤崎のアリバイ立証上重要な意味を持つことを認識し、その記憶喚起に努めたのであり、しかもB谷からも説明を再三聞いたものの自己の記憶と合致せず、記憶を喚起できなかったが、退職後にようやく記憶喚起できた。」ことが真実であれば、国賠証言時にこれを忘れて「当初から記憶していた。」と記憶違いするはずはなく、仮に、そのように記憶違いしていたならば、国賠証言時には、警察官調書の記載内容と国賠証言の内容とは同一であるとの認識を有していたはずであるから、国賠証言における供述内容と記書記載内容の食い違いを指摘されてもその理由を記憶に基づいて説明できるはずがないのに、被告人は、警察の事情聴取に対し国賠証言どおりの電話の順序を供述したにもかかわらず、これが調書に記載されなかったことを前提に、その理由を、単なる推測としてではなく、当時の記憶として説明して証言しているのであって、これは、当初から記憶していたかのように意図的に虚偽を述べたものであることを物語るというのである。

しかしながら、「記憶違いするはずない。」との点については、人の記憶喚起過程が単純にこうあるべきだなどといえないことは前述のとおりである上、検察官は「記憶喚起に努めた。」という意識的な事実があれば忘れ難いはずだとの点を指摘するものと考えられるところ、警察官からの事情聴取時にも記憶喚起に努めたとはいえ、それは園長として多忙な中で、管理棟事務室での出来事全体に関する事実についてのものであり、必ずしもその中の一事項に過ぎない電話の順序の点に関することが印象に残るとはいい切れない。一方、退職後に喚起した記憶については、国賠訴訟の準備の中などで繰り返し想起し、また、電話の順序が特に重要な問題であると意識するうちに強固な記憶となったと考えられるから、後に喚起した記憶が当初からの記憶であるように思い込むことも十分あり得るのであって、これに、国賠証言が、そのような記憶喚起の時点から二年近くの日時が経過してなされていることをも考え併せると、記憶喚起過程を記憶違いするはずないなどということはできない。また、国賠証言での自己の警察官調書の記載内容と右取調べ当時供述したこととの関係の説明については、被告人の本件公判廷における供述を前提にすれば、確かに経験しているはずのないことの説明がなされているといわざるを得ないものではあるが、これは、「(警察官にも国賠証言と同じ順番の話を)多分したと思うんですけれどもね。」という証言からも理解できるように、自分としては当時も国賠証言のときと同じ記憶があったと思っていたために、そのような供述をしたはずだと推測して述べ、続けて、調書の記載がそれと違っている理由を聞かれたため、当時の取調べ状況に照らして考えられる理由を推測して説明していることが窺われるのであって、これが、意図的にこの点につき虚偽を述べたものと判断する根拠とはならない。なお、右説明の中で、推測ではなく記憶であるかのような表現部分が存在するが、これは、自己が警察官に対しても国賠証言と同じ供述をしたはずだとの自己の推測を正当化するために、推測した理由を自己の記憶喚起ともみられるような表現にしてしまったものと考えられ、厳密には相当な表現ではないかもしれないが、尋問の流れのある証言では一般にもしばしばみられることであって、全体として虚偽供述を意図していたものと推認する根拠にはできない。

そして、検察官は、被告人の供述が結果としてB谷の供述に沿うものになったことをとらえて、B谷に同調して虚偽を述べたものであると主張するのであるが、そもそもB谷の供述が事実に合致するものであれば、記憶喚起によって事実に合致する方向に供述が変化することはあり得ることであって、供述が一致したことのみをもって虚偽の供述であるとの推認の根拠にできるものでないことはもちろんである。

その他、被告人の記憶喚起過程に関する供述が不自然で信用できないとする検察官の主張は、いずれも被告人の供述を曲解するなどしてなされているものであって、採用し難い。

(三) E田の供述

E田の、電話の順序に関する供述の経過を捜査復命書及び供述調書等の記載からみると、昭和四九年三月二五日には「午後七時四〇分前後ころ、澤崎が大阪放送関係者に電話をかけ、途中でB谷に替わった。E田の提案によりB谷がカメラマンにY子の写真焼き増しのための電話をした。」旨、同月二九日には「澤崎がD沢に電話をかけてB谷に替わり、五分後にB谷が大阪放送報道部に電話した。一段落したところにお茶を飲んでおはぎ等を食べた後、E田の提案によりB谷がY子の写真の焼き増しを依頼する電話をかけた。その後ころと思うが外から電話がかかりB谷が出たが、青葉寮園児父兄からの電話だったと思う。B谷が青葉寮に連絡に行き約五分後に戻った。B谷が電話を聞いた前後ころに澤崎が電話を聞いていた。青葉寮園児Jの父からのものであったように記憶している。」旨、四月二日には、「澤崎が大阪放送の知人に電話をし、途中でB谷と替わり、しばらくして再びB谷が大阪放送に電話した。その後(大阪放送との話が終わったころ)、父兄から電話がありB谷が場を離れ、二、三分後に戻る。お茶を飲みながらボランティアに電話。間もなく父兄から電話があった。」旨(取調官の求めにより同日作成したE田自身のメモ記載にもよる。)供述し、その後、四月二〇日、二一日及び二六日と、最後の電話が誰からかわからないとするなど多少の内容の違いはあるものの、基本的には同様の順序を供述していたが、昭和四九年六月二〇日以降は、捜査に非協力的な態度をとり、電話の順序についてもあいまいな記憶しかなく、これまでの供述は取調官から他の供述者の供述をもとにいわば押し付けられたものである旨供述するようになったものと認められる。

E田は、本件の公判廷においても、電話の順序については極めてあいまいな記憶しかなかったにもかかわらず、警察官から無理に順番を付けさせられた旨供述しているのであるが、その供述は、そもそもこれらの電話が長くとも数十分内にかかってきた電話であること、同人が自ら各電話をかけたり受けたりしたものではないこと、その後に園児が死体で発見されるという衝撃的な事件が発生していることなどからすれば、電話の順序のような事柄について記憶が明確でなかったことは十分考えられる上、警察官による取調べ状況に関する部分も、その内容に特に不自然な部分はなく、これに反する警察官証言と対比しても単純に排斥し難いものであって、全体としてその供述するところが事実である可能性は否定できない。しかし、検察官は、そのE田の供述が信用できず、むしろ虚偽であることが明らかであるとして種々の主張をしている。当裁判所は、ここにおいても検察官の主張は採用し難いと考えるので、以下説明する。

まず、検察官は、E田が四月二日に作成したメモに、澤崎が大阪放送にY子捜索の放送依頼をするように言い出した経緯が具体的に記載されており、その後B谷及び被告人が国賠訴訟において同様の経緯を供述していることからすれば、右E田のメモの記載は信用性が高く、また、当時、E田が当夜管理棟事務室に入ってからの状況について具体的記憶を有していたことは、他の捜査復命書の相当程度具体的な記載からも裏付けられるから、右メモに記載のある「大阪放送に依頼した電話(D岡電話)の後に父兄からの電話(D原電話)があった」とする部分の信用性も高い旨主張する。

確かに、E田の管理棟事務室内における出来事に関する供述には相当程度具体的な部分があり、ある程度の記憶が残っていたとはいい得るのであるが、そのことを、電話の順序についても記憶があったことの根拠とすることはできない。すなわち、いくつかのある出来事が存在したことの記憶がある場合、これらが相互に関連するものであれば、その関連状況をも含めて順序も記憶に残っていることが多いといえようが、相互に関連のないものであれば、個々の出来事の記憶はあるが、その前後関係については記憶がないということもしばしば起こり得ることである。本件において、大阪放送関係電話とD原電話とは異質のものであって、E田の供述内容をみても、これを結び付けるような事実は述べられていない。その上、D原電話が最初でない点は動いていないとはいえ、もともと三月二〇日付及び同月二四日付各捜査復命書にはC林電話やそれに関連する事実だけがごく簡単に触れられているだけで、同月二五日付及び同月二七日付各捜査復命書にもD原電話についての供述はないこと、同月二九日付捜査復命書にはD原電話が大阪放送関係電話より後にあったとして記載されているが、これはC林電話よりも後だったとも記載されており、四月二日にC林電話より前だったと変更されていること(これも、現段階で検察官が真実であると主張している順番とは異なるものである。)、直接電話の順番に関するものではないが、澤崎がサンドイッチを、被告人がおはぎをそれぞれ出して、皆でこれらを食べたりお茶を飲んだのがいつかという点も一定せず、右各電話の前になったり後になったりしていることからすると、E田の供述経過からみて管理棟事務室内での出来事の順番が一貫していたとは到底いえない。この捜査階段当初の供述の不安定さに照らせば、E田自身が述べる、「四月二日の取調べの際に記憶があいまいなままであることを許されず、無理に順番を付けることを求められた。」旨の弁解はむしろ事実に合致するとの推測が働くのである。

なお、検察官は、E田の記憶が混乱していたにせよ、四月二日に前記のような順番を供述した以上、それなりの理由があったはずであるのに、E田はその理由を説明せず、その後の同月二〇日付警察官調書並びに二一日付及び二六日付各検察官調書においてもその順番を訂正していないのであるから、E田に当時そのような順番の記憶があったものと認めるべきであって、全く記憶がないとするE田の公判供述は信用できない旨主張する。しかし、E田は取調官たる小島からいろいろヒントを与えられた旨供述しており、そのような状況では必ずしも自己の記憶によらなくとも順序をつけることはあり得るし、仮に、あるヒントを与えられればそうかもしれないという程度の記憶があったとしても、それが別のヒントがあれば異なった順序のような気もするというものであれば、このような状況をもって記憶が全くあいまいであると表現することに何ら問題はない。E田において電話の順序に関する記憶が全く白紙であり、捜査官が特定の明確な順序を強制したと述べたかのようにいう検察官の主張は、ことさらE田供述を非難するための解釈といわざるを得ない。また、他の部分につき訂正がなされたのにこの順番については訂正されなかったとしても、いったん調書が作成された場合、明らかに誤りであるとまでの記憶が喚起されない段階では、ことさら訂正するまでもないとしてこれを放置することもあり得るのであって、訂正しなかったことがその記載どおりの記憶があったことを意味すると断ずることもできない。結局、電話の順序についての記憶が当時あいまいであった旨のE田の供述が到底信用できず、むしろ虚偽であることを推認させるという検察官の主張は、採用できない。

(四) B谷の供述

B谷の、電話の順序に関する供述は、当初からD原電話が最初であり、その後大阪放送関係電話があった旨供述しており、それ自体に特に問題とする不自然なところはない。

これに対し、検察官は、まず、B谷の供述が記載されている昭和四九年三月二八日付捜査復命書によれば、B谷は当時「D沢電話、C林電話、J電話があり、次いで午後八時前にD原電話があった」旨、右と矛盾した供述をしていると主張する。しかし、右捜査復命書の記載をみると、午後七時半ころから被告人らとお茶を飲みながらY子の捜索記録作成の話をして、さらにサンドイッチやおはぎを食べたこと、D沢電話の後にC林電話があったこと、C林電話のころにD石電話があったと澤崎が述べたこと(必ずしも検察官主張のようにD石電話があったことが記載されているとは読めない。)、午後八時前にD原電話があり青葉寮に伝えたこと、その後午後八時一五分に被告人が出発したことが順次記載されているだけであり、検察官のいうようにD石電話の話に「次いで」D原電話があったと記載されているわけではない。各出来事が実際に存在した順序どおりに記載されているものと理解すれば検察官の主張は成り立つけれども、D沢電話とC林電話との間には「その後」の語が、C林電話とD石電話の話との間には「その頃」の語が、D原電話と被告人出発との間にも「その後」の語があるのに対し、D原電話の前にはそれ以前の記載事項との時間的関係を示す語彙がないことや、そもそもこれが捜査復命書であることを併せ考えると、D沢電話、C林電話及びD石電話の話の説明をしたところで、「そういえば午後八時前にD原電話があった。」ということを他の電話との関係を意識せずに述べただけであり、その述べた順序で記載されているとも考えられるのである。そして、事実が記載のとおりの順序であるとすると、午後八時前にあったとされるD原電話が終わって、次の記載事項である午後八時一五分の被告人出発時刻まで一〇分以上の時間が生じるのに、この間の出来事について特に何も記載されていないこと、少なくとも現実にC林電話はD原電話より後であり、この点についてB谷に記憶違いが生じる可能性は低いと認められることも、D原電話が他の電話等との順序を意識して述べられて記載されたものではないことを窺わせる事情といい得るのである。右捜査復命書の記載を断定的に解釈した検察官の主張は採用できない。

また、検察官は、B谷の供述に関して、被告人らが管理棟事務室においてマスコミ関係の話をするうちに澤崎がC谷電話をかけたという経緯は事実であると認められるから、これによれば放送依頼の話が出てからC谷電話までの間にD原電話が介在した事実は窺えないところ、B谷の供述によれば、D原電話の前にマスコミ関係の電話の話が出たとしながら、C谷電話ないしD沢電話はD原電話の後であるとするのであって、このようなB谷の供述は作為による虚偽のものであることは明らかであるというのである。しかし、マスコミ関係の話をするうちに澤崎がC谷電話をかけたという経緯が事実であるとしても、なぜ、D原電話がその間に介在しなかったことになるのであろうか。D原電話が外部からかかってきた電話であって、マスコミ関係の話とは必ずしも関連するものではないことからすれば、その二つの時間的な前後関係が記憶にとどまらないことは十分あり得ることであり、関係者の供述をみても、マスコミ関係の話から放送を依頼しようという話になり、現実にC谷電話になるまでに、どのような話がどの程度の時間にわたりなされたのか具体的な経過がすべて供述されているわけではない以上、マスコミ関係の話をするうちに澤崎がC谷電話をかけたという抽象的事実が供述されているからといって、その間に他の事実が存在しないことを意味すると解釈することはできない。D原電話の前にも後にもマスコミ関係の話が出ていたとしても何の不思議もないのであり、検察官の主張は誤った前提に立つものというべきである。

(五) 澤崎の供述

澤崎の電話の順序に関する供述の経過を捜査復命書及び供述調書等の記載からみると、同人は、昭和四九年三月二四日に「D沢電話の後でC林電話があった」。旨、同月二八日には「D石電話、D沢電話、C林電話の順に電話があった。」旨、逮捕勾留後の同年四月一一日には「C谷電話、D沢電話、C林電話、D石電話、D岡電話、D原電話の順に電話があった。」旨、同月二六日及び二七日には「C谷電話、D原電話、D沢電話、D石電話、D岡電話、C林電話の順に電話があった。」旨、釈放後の同年六月二七日には「D原電話、D石電話、C谷電話、D沢電話、D岡電話、C林電話の順であった。」旨供述していたものの、その後、電話の順序は覚えていないとの供述に変わっている。

この供述変遷につき、澤崎は、同人に対する殺人被告事件の被告人質問において、「C谷電話とD沢電話とD岡電話の三つがその順序であることは覚えていたが、他の電話の順序は記憶がなかった。逮捕勾留中に述べた順序は、捜査官から『D原電話が最後の電話である。』との不当な前提を与えられたためにしたものであり、釈放後に述べた順序は、国賠訴訟の準備等で確認された事実を述べたのだと思う。」旨説明している。右説明は、逮捕勾留中の取調べの影響をいう部分を除いては必ずしも明確にその供述変遷の理由を説明しているものとはいい難いが、これは当時から二〇年以上経過した平成八年一二月になされた被告人質問の中での説明であってやむを得ない面もあり、少なくとも、当時の供述において順序が一定していないことは、当時順序に関して記憶がなかったという説明に沿うものであり、この説明を明確に否定することはできないと考えられる。

これに対し、検察官は、澤崎の逮捕勾留中の供述を取り上げ、「取調官からD原電話が最後の電話であると教示された。」との澤崎の供述は虚偽である上、D原電話を最後の電話と供述せず自己の殺人の犯行を否認している昭和四九年四月二六日、二七日の供述調書においてさえC谷電話が最初の電話であると供述しているのであるから、当時の「最初の電話はD原電話ではなくC谷電話である。」との澤崎の供述は同人の記憶に基づく真実の供述である旨主張する。しかし、澤崎の、例えば「午後七時半から七時四〇分のたった一〇分位の間に大阪放送関係の電話ができるかどうか疑問を感じて尋ねたところ、取調官から一蹴された。」との供述と、取調官の供述とを対比して検討しても、「D原電話が最後の電話である。」と教示されたとの澤崎の供述が虚偽であるとの判断はできないし、同月二六日、二七日の各供述調書における電話の順序に関する記載は澤崎自身が述べたものであるとしても、それはその直前の調書における順序とD石電話、D岡電話及びC林電話とD原電話との関係で大きく異なっているだけでなく、検察官が真実であると主張する順序とも異なっているのであって、そのうちのC谷電話が最初であったという部分だけを取り上げて、これが真実に合致する記憶であると評価することは不当である。

また、検察官は、澤崎が同年六月二七日には「D原電話、D石電話、C谷電話、D沢電話、D岡電話、C林電話の順であった。」旨供述したことをとらえて、澤崎がそのように記憶していたのであれば、逮捕勾留中にこれと相反する供述をするはずはなく、公判において「覚えていない。」ということになるはずもない旨主張するが、澤崎は、右六月二七日の供述が自己の記憶である旨供述しているわけではなく、他から聞いた情報をも含めて述べているとも理解できるのであって、前提を誤っているものである。

以上、澤崎の覚えていないとの供述が虚偽であることが明らかであるとする検察官の主張は採用できない。

9  C林電話時刻に関する関係者の供述変遷について

(一) はじめに

B谷は、捜査段階から「C林電話の際、被告人の腕時計で午後八時一五分であることを確認した。その後すぐ被告人は出発した。」旨供述し、被告人及びE田も、国賠訴訟及び本件公判廷において、同旨の供述をしている。これらの供述も、検察官主張事実に反するものであって、それ自体が検察官主張を裏付けるものになり得ないことは一見して明白であるが、検察官は、電話の順序に関する供述と同様、右各供述の変遷状況等をみれば、これらがB谷に同調して虚偽を述べたものであることが明らかであるとし、むしろ、これらが虚偽であること自体から、又は、右の者らの当初の供述内容から、検察官主張事実が真実であることの裏付けとなり得るかのような主張をしている。以下においては、右検察官の主張を検討する。

(二) 被告人の供述

被告人の、C林電話の時刻ないしこれに関係すると考えられる当日午後八時一五分という時刻に関する供述の経過は、原判決第八の三3(一)(214頁)、(二)(247頁)及び(三)(254頁)に記載されたとおりである。そして、被告人は、記憶喚起の過程を、国賠訴訟及び本件公判廷における被告人質問において「当初から、午後八時一五分という時刻の記憶はあり、六月の検察官との走行実験によりC林との待ち合わせの時刻を決めたのが午後八時一五分であったことを鮮明に思い出した。」旨説明しているのであり、その供述する記憶喚起の過程は、おおむね原判決が第八の五1(一)(1)及び(2)(346頁)に記載するとおりである。

このC林電話関連事実について被告人が説明する記憶喚起の過程も、電話順序についてのそれと同様、それだけをみた場合に、にわかにこれが真実であると断定できないものの、一応の説明をなし得ていると評価することができ、これが「余りにも不自然。」とか「悩みながらもB谷の供述に合わせていった。」と評価できるものではないとする原判決の判断に特に問題はない。これに対し、検察官は、右説明が不自然かつ不合理であるとして種々の主張をするが、これらも採用し難い。以下説明する。

検察官は、まず、被告人が、国賠証言より前にはC林電話の時刻ないしA山学園出発の時刻が午後八時一五分であったことを供述、発言していない旨主張する。しかし、被告人の説明によれば、右事実の記憶を喚起したのが昭和四九年六月なのであるから、それ以前に右内容を記憶として確定的に供述していないことは当然である。検察官は、被告人が自己の出発時刻についてあいまいながら午後八時一五分であったとの記憶を比較的早い段階に喚起していたという点を取り上げ、仮にそのような記憶があったのであれば、それがあいまいなものであったとしてもその旨供述してしかるべきであると主張するが、被告人は、捜査官からC林電話の時刻が午後八時前であるとのE野供述は信用できると言われたことや、新聞会館まで四、五〇分かかるとの固定観念があったことで真実の記憶喚起が妨げられた旨説明しているのであり、あいまいな記憶があっても、これが事実に反しているのではないかと考える場合にはその記憶を供述しないことは十分あり得ることであって、あいまいさの程度にもよるが、検察官の主張するように「その旨供述してしかるべきである。」などといえるものではない。

また、検察官は、被告人が「通勤その他の経験により、A山学園から神戸新聞会館まで四、五〇分かかるとの固定観念があったために記憶喚起が妨げられた。」旨供述する点に関し、①被告人は、「B谷がC林電話において待ち合わせ時刻を午後八時四五分と決めた際、『そんなに早く行けるか。』と思ったことは当初から覚えている。」旨供述しているところ、新聞会館まで四、五〇分かかるということは、C林電話の時刻から約束の時刻までが四、五〇分より短いということを意味するから、この四、五〇分かかるとの点は、C林電話の時刻が午後八時一五分であったことと整合するのであって、記憶喚起を妨げる事情とはなり得ず、むしろ午後八時一五分が真実であればそれが一体として記憶されているべきことを示すものである、②被告人の述べるC林電話の際の経緯からすれば、到着の時点で、四、五〇分かかると思っていたのが間違いであり、実際には三五分以内で走行できることが分かり、これが印象深く記憶に残ったはずであって、被告人が、その後の捜査段階においても、「四、五〇分かかる。」との固定観念を持ち続けることはあり得ないし、「X死亡事件当夜の走行時間が四、五〇分であった。」と考えるはずはない、旨主張する。しかしながら、①については、「そんなに早くいけるかな。」という感覚と、「四、五〇分かかる。」という固定観念を結び付けて論理的に考慮すれば検察官の主張のような構造になっているとしても、記憶喚起の過程でそのような思考方法をとるとは限らず、「四、五〇分かかる。」と「到着が午後八時五〇分。」を結び付けなければ具体的時刻の想定に至らないのであるから、被告人の供述が一概に不自然と決めつけることはできない。また、②については、確かにX死亡事件当夜は午後八時一五分に出発して午後八時五〇分に到着したとすればそのことの認識が生じたはずではあるものの、間に合うか間に合わないかが当時の意識の中心であったと考えられること、その直後に園児二名が死体で発見されたという衝撃的な事件の発生による記憶の混乱があり得ることからすれば、右認識が「所要時間が三五分」という形で記憶にとどまらず、あるいはその体験部分が意識から失われ、従前の経験による感覚だけが残ったとしても不思議はない。

さらに、検察官は、被告人が、第一次捜査段階においては、C林電話の時刻が分からないとする一方、午後八時一五分という時刻を新聞会館に向けて出発してからのどこかの場面として供述しているのであって、これはその二つが別のこととして認識されていたことを意味する旨主張する。確かに、被告人が当初説明していた午後八時一五分の時計を見た場面が、国賠で証言したC林電話の際に見た場面と整合性があるか若干の疑問がないではない。しかし、いまだ記憶が喚起されず、時計を見た場面とC林電話の場面という二つの場面が記憶として結び付いていなかった以上、説明の際にその二つが別々に供述され、その結果記録された供述内容が二つを別の事柄と理解できるようなものになることはやむを得ないともいい得るのであって、右記録された供述内容をもって、二つの事柄が別のことであるとの積極的な認識があったことを意味するとはいえない。検察官の主張するように断定することは困難であり、「不自然極まりない」とは評価できない。むしろ、本件ではどこかで時計を確認したという供述が極めて早い段階で被告人の口から述べられていることの持つ意味の方が、右の疑問に比べはるかに大きいことに注目すべきであろう。

なお、検察官は、被告人が記憶を喚起したとする時期の後である昭和五〇年八月初めころでさえ、被告人が「八時一五分の時計を見た記憶はあるが、事務室で見たのか、三宮へ行く途中で見たのか分からない。」「走行実験の結果から逆算すると午後八時一五分には事務室にいたことになるので、それで確信を得た。」と述べた事実が認められるとして、被告人の記憶喚起過程の説明を非難している部分があるば、右事実認定の根拠とされるB沢冬子の証言をその反対尋問も含めて検討すれば、右事実関係は、「被告人が、出発時刻について、X死亡事件直後はよく分からなかったが、走行実験の後には確信をもった。」と述べたことを、澤崎がX殺害犯人であると信じ込んでいるB沢冬子において誤って記憶喚起して証言している可能性が高いと認められるのであって、前提を誤った非難といわなければならない。

その他検察官は種々の主張をするものの、いずれも被告人の供述を一方的な立場から断定的に解釈するところを根拠にしているものであって、採用し難い。

(三) E田の供述

E田については、検察官は、E田が午後七時五〇分ころから若葉寮職員室におり、管理棟事務室にはいなかったことを前提としているところ、その前提が採用し難いことは前述のとおりである。しかし、C林電話時刻に関する供述部分についても、E田の供述が不自然であって信用できないとの主張があるので、この点をみておくこととする。

検察官は、E田が、C林電話はB谷からかけたものだと供述している点が、客観的事実に反している上、その供述の具体的内容がB谷供述に一致していることから、そもそもE田がC林電話を体験しておらず、B谷の供述に合わせて供述したものと推認できるというのである。しかし、当日昼間にはB谷からC林に電話したという事実が存在しており、これとの取り違えも考えられる上、E田及びB谷は、C林電話に至る経緯として、「Y子の写真を焼き増す必要があるという会話」があった旨供述しているところ、仮に右のような会話があったことが本当であれば、右会話の後にC林電話がかかってきたために、B谷もE田も右会話に基づきB谷から電話したように誤って記憶してしまうことも十分考えられるのであり、この点が一致しているからといって、意識的な虚偽供述であるとはいえないと考えられる。また、検察官は、E田が、C林と待ち合わせ時刻を約束した相手を、捜査段階では客観的事実と異なる被告人としていたのを、国賠証言においてB谷に変更したことからも、E田がB谷の供述内容に沿うように意図的に供述を変更させている状況が窺えるとするが、同じ電話の際に被告人もB谷もC林と話をしているのであり、どちらが時刻を約束したのかの点に変遷があったとしても、記憶の変動として十分考えられることであり、意図的な変遷と推認する根拠とはならない。その他、E田が国賠証言においてした記憶喚起の過程の説明を取り上げて云々するが、E田の国賠証言自体がX死亡事件直後の取調べから約二年半経過しているのであり、取調べの際の状況を思い出して説明した言葉を、ことさら細かく分析して不自然さを強調しても、説得力はなく、結局、E田の「時計をのぞき込んだときに午後八時一五分だった。」と供述する点が、X死亡事件後しばらくの捜査段階においては全く窺われなかったにもかかわらず、国賠証言で明確に記憶が喚起できたとされている点で若干の不自然さがある点を除けば、E田の供述に特に不自然な点は認められず、これが虚偽であることが推認できるというようなものではない。

(四) B谷の供述

B谷は、昭和四九年四月一日付警察官調書以降、「C林電話で待ち合わせ時刻を決める際に午後八時一五分であることを確認し、その後被告人がすぐ出発した。」旨の供述で一貫しているのであるが、同年三月二三日付捜査復命書には、B谷の供述として「午後八時ころC林電話があり、午後八時一五分ころ被告人が出発した。」旨、同月二八日付捜査復命書に同じく「C林電話のころに澤崎がD石電話の話をした。午後八時前にD原電話があった。被告人は午後八時一五分ころ出発した。」旨各記載がある。

検察官は、これら捜査復命書の記載を取り上げ、「B谷は、C林電話につき、右の三月二三日付捜査復命書ではその時刻が午後八時ころと、同月二八日付捜査復命書では時刻それ自体は供述していないが午後八時一五分の被告人出発より相当時間前であった旨、その後の供述とは矛盾する供述をしており、B谷がその後一貫して供述するとおり具体的で明確な記憶を保持していたとすると、右のような供述をすることは考えられないから、これはB谷の後の供述が体験記憶に基づかない虚偽のものであることを如実に示している。」といい、「B谷が、当初、C林電話については一応記憶に基づき午後八時と記憶する一方、被告人出発時刻についてのみアリバイ作出のために午後八時一五分と供述しながら、後に、被告人出発時刻に根拠を与えるためにC林電話の時刻を遅らせたと考えられる。」旨主張する。しかしながら、B谷が澤崎のアリバイを主張するために被告人出発時刻に根拠を与えるためには、管理棟事務室内の関係者で出発時に時刻を確認したことのみを事実として作出すれば足りるのであり、相手方のあるC林電話の時刻を無理に変えようとすることはかえって危険である上、その設定する時刻も午後八時一五分でなく午後八時一〇分でも五分でもよく、その方が検察官が主張するところのC林電話終了の時刻午後七時五〇分に近いため怪しまれないで済むのではないかとの弁護人の指摘はもっともな面がある。さらに、検察官の指摘する右の三月二三日及び二八日付各捜査復命書の記載は、この時刻の点が多くの事項の中の一部であって、当時それほど重要なこととは意識されていなかったと考えられること、捜査復命書の記載であって本人の確認がなされていないこと、同月二三日付捜査復命書は、箇条書の極めて簡単な記載で、時刻もいずれも「ころ」という大雑把なものであり(この前後の時刻は一五分単位でしか記載されておらず、被告人出発後に捜索表作成にとりかかったのも八時一五分ころと記載されている。)、その記載をもって検察官の主張のように理解するのは強引に過ぎるといわなければならないこと、同月二八日付捜査復命書については、電話の順序の項でも述べたように、検察官の「C林電話が被告人出発の相当時間前であった。」との理解自体が必然的なものではないことからすると、右二通の捜査復命書の記載をもって当時のB谷の供述ないしその元にある認識を推測することは相当でなく、検察官の主張は採用できない。むしろ、被告人出発時刻自体でみれば、当初から午後八時一五分ころと述べていたのであるから、一貫していると評価すべきであろう。

また、検察官は、C林と時刻を約束したときの状況に関する供述について、被告人の供述とも対比しながら不自然であると主張するところ、確かに、両者の供述に必ずしも一致しない部分があり、また、新聞会館まで四、五〇分かかると思っていた被告人と、もっと早く行けると考えていたB谷の間でそのことに関するやりとりがあってもよさそうに思われるなど、若干気になる点がないとはいえないものの、その後の園児らの死体発見による精神的衝撃から生じた記憶の混乱もあり得るし、B谷が時刻を決めてしまった後で、被告人が果たして間に合うか心配したものの、一度決めた時間を変更するよりも急いで出発し少しでも早く着いた方がよいと考えた旨の被告人の供述するところもあながちあり得ないことではない。また、確かに被告人は時間に厳格な方であったとの証拠はあるが、被告人が述べるように新聞会館到着時刻が午後八時五〇分であるとすれば、既に約束の時間より五分遅れているのに、C林に対してこの遅れをことさら謝ったというような証拠も見当たらない。このように、ある程度の時間を見込んだ待ち合わせの場合には、もちろん相手方が誰であるかにもよろうが、五分ないし一〇分程度の遅れは全くの想定外のことであるとは限らないのではなかろうか。B谷の供述するところに、全体として虚偽であることが明らかというほどの不自然さはない。

(五) 澤崎の供述

澤崎は、昭和四九年三月二四日付捜査復命書において被告人の出発時刻を午後八時ころと供述し、逮捕勾留中の同年四月一一日に午後八時前ころと供述したことがあるものの、その後はC林電話の時刻、被告人の出発時刻ともに覚えていない旨供述している。検察官は、これがB谷の供述に反するために理由なく前の主張を撤回したものである旨主張するが、前者は根拠も何も示していないのであって、もともと記憶がはっきりしなかったのを、他の事実を供述する流れの中で感覚的に時刻を特定しただけのものとも理解できるし、逮捕勾留中には誤った情報を前提にした可能性が窺われるのであって、「主張の撤回」と理解することは相当ではなく、ましてや、これをB谷の供述に反しないようにするためというのは憶測に過ぎないものである。

10  澤崎によるX殺害の事実について

(一) 本件での扱いについて

検察官は、本件偽証が澤崎によるX殺害事件にかかる同人のアリバイを主張するものであり、そのアリバイ成否の判断は同事件の成否の判断と表裏一体の関係にあるとし、原判決が澤崎の犯人性を推認させる証拠を全く考慮することなく本件偽証事件の成否を判断したと非難している。

確かに、本件は、検察官において澤崎が殺害犯人であると主張するX死亡事件と密接な関連を有するものであり、例えば、午後八時ころに澤崎が青葉寮に行ったことが明らかであるような場合には、管理棟事務室内での出来事を判断する際にも当然そのことを考慮することになろう。しかしながら、これは、あくまでも被告人に証言事実に対応する記憶があったか否かを検討するために必要な限度で考慮すべきものであり、澤崎が殺人行為を行ったか否かが直接的な問題ではなく、これを推認させる証拠が、一方では本件に関する証拠ともなり得るため、その限度で考慮されるにとどまるのである。特に、本件は、澤崎によるX殺害事件を立件する過程において取り上げられた事件であることは明らかであり、その本体ともいうべき澤崎によるX殺害事件の成否について熾烈な争いがあり、これに関する膨大な証拠の総合的判断が求められている場合に、本件との関連性の強弱を度外視して右X殺害事件に関するすべての証拠についての判断を詳細に示すことは、本件について結果を出すために必要とされる以上に屋上屋を重ねることになりかねないであろう。以下においては、検察官の所論にかんがみ、当裁判所が必要と考えた限度で若干触れることとする。

(二) 検察官がX殺害に関する澤崎の犯人性を示すとする証拠のうち、澤崎の自白について

澤崎のX殺害を認める自白は、もともと捜査段階の供述調書に一時期現れた断片的で不完全なものであり、自白内容ははなはだ概括的で信用性を高めるような具体性、迫真性がなく、重要な点について明らかに客観的事実に反する部分がある。最も問題なのは犯行の動機である。一般的に被告人と公訴事実との結び付きについて自白以外の証拠が十分でない場合には、自白の信用性を判断するものとしてその動機内容は特に重要な意味を持つ。しかし、澤崎に対する殺人被告事件において検察官の主張する動機、すなわち、「澤崎が、X殺害の二日前の宿直の際、Y子が浄化槽に転落するのを目撃しながらこれを救助せず、逆に自己の責任になると考えてつい蓋をしたことに思い悩み、Y子死亡に関する自己の責任をカモフラージュするためにXを殺害した。」という動機は、仮に浄化槽の蓋をしたことが真実だとしても主張内容自体が通常の人間の考えることとして極めて不合理である。のみならず、本件証拠関係の下では、Y子転落場面を澤崎が見ており、さらにY子転落後に浄化槽の蓋をしたという点は、事実に反していると認められるのである。すなわち、E子が、第二次捜査段階において、Y子はおやつの後に自分も含め他の園児四名と一緒に遊んでいるとき浄化槽に落ちた旨、また自分が浄化槽の蓋を開けた旨、それまでの捜査では予想されておらず、Y子が転落したのは夕食直前であり、そのときY子が一人でいたことになっている内容の澤崎の自白とも全く異なると解釈せざるを得ない供述を始めているところ、Y子が一人で浄化槽の蓋(重さ約一七キログラム)を開けられると思えないことや、Y子の死亡時刻に関する鑑定内容等に徴してもE子供述の信用性は高く、本件においてこのE子の供述を否定するような証拠は存在しない。この事実に本件で取り調べられた全証拠を総合すれば、澤崎が自白を除き一貫して主張しているように、澤崎はY子転落の現場におらず、当然転落を目撃していないと推認するのが相当である。さらに、E子は、証言において澤崎はY子転落現場にはおらず自分が浄化槽の蓋を閉めた旨述べており、この証言も信憑性が高いというべく、右に推認される事実を裏付けているのである。そうすると、澤崎の自白する動機は事実に反しているといわざるを得ない。検察官の主張する澤崎によるX殺害事件のような犯行で、その動機内容に重大な事実の誤認があれば、自白全体の信用性に疑問が生じるのは当然である。通常であれば、これまでの捜査の見直しを迫られるほどの事実といえよう。

なお、検察官の主張の根底には、任意性を否定されない供述調書において自白していれば、それは事実と考えるべきという感覚があるように思われる。しかし、澤崎は、X殺害事件の被疑者として、真実ではないにもかかわらず自白してしまった理由を種々説明しているところ、それは決して通り一遍のものではなく、経験した者でなければ供述できないと思われるような具体性と迫真性を備えており、しかもその一部は取調官の供述によっても裏付けられている。澤崎のX殺害に関する自白の信用性は乏しいといわざるを得ない。

(三) 検察官がX殺害に関する澤崎の犯人性を示すとする証拠のうち、園児供述について

(1) いわゆる目撃供述をしているといわれる園児の多くは、X死亡事件から三年以上経過した第二次捜査段階以降に初めて重要な供述をしている。検察官は、B谷らによる口止めがなされたために園児らはX死亡事件直後に事実を話せなかったと主張しているが、そのような具体的な口止めの事実を示す証拠はない。園児死亡事件に関して余計な話はしないようにという程度の話がなされた可能性はあるが、これは事件の重大さと園児らの状況を考えれば果たしてとがめられるような行為といえるか疑問であり、当然の注意ともいえるのであって、澤崎の犯行を隠すために澤崎に関連する部分だけを供述させない口止めとは質的に異なる。検察官は、指導員なり保母が園児に対して余計なことは言わないようにと注意しただけで、園児が一切口を閉ざしてしまうほどの効果があるとも主張するが、A山学園内にも、それぞれの園児にとって怖い先生もいれば、何でも話すことのできる先生もいるはずであり、現に本件証拠上もその状況が少なからず見受けられる。検察官がいうように余りに画一的に考えるのは相当でなく、また、右園児らのX死亡事件直後の供述は目撃供述以外の事件関係部分についてそれぞれ詳細かつ結構豊富であって、口止めされている者の供述とは到底思われない。

なお、ここで園児証言全体の特徴について述べると、園児証言にはDを除き総体的にみて証言を回避する傾向がみられる。特にA子、E子においてそれが顕著である。質問事項がそれほど複雑であるとも思われないのに、沈黙し、言葉を濁し、逡巡し、簡単な答えを得るのにも長時間を要することが多い。検察官は、これを園児の能力・特性、澤崎に対する気がね・遠慮・怖れあるいは証言の場における弁護人の質問の仕方や異議の多発によるというが、それでは説明し切れないものがあり、園児が本当に体験していないことあるいは記憶があいまいなことを証言することによる逡巡か、前に捜査官に述べたことと違うことを言えないための心理的葛藤による逡巡か、判断に迷わざるを得ない。そのため、本件において、園児供述の信用性を判断するためには、捜査段階での供述まで遡って考察する必要が出てくることになる。

(2) B供述

園児Bは、澤崎が青葉寮廊下において抵抗するXを非常口からむりやり連れ出す様子を目撃したと供述しており、これは澤崎によるX殺害行為を立証する上で内容的に極めて重大な意味を持つ証拠として位置付けられる。ところでBは、X死亡事件直後ちは同事件当日の午後八時ころに澤崎がXを連れ出した事実はなかった趣旨に受け取れる供述をしていたのに対し、同事件から三年以上経過した昭和五二年の第二次捜査段階から右の目撃供述をしている。検察官は、BがXの連れ出される状況を目撃して恐怖心を抱いたこと、父親から余計なことは喋るなと言われたこと、B谷から口止めされたこと等のために、X死亡事件直後に話ができなかったのであって、三年以上経過した後の供述であっても右目撃供述は信用できると主張する。

しかし、B谷による口止めがあったと認めるに足りる証拠はないし、その他の理由も、X死亡事件直後に話さなかったのを同事件から三年以上経過した後に初めて供述した理由として納得できるようなものではない。むしろ、本件証拠からは、Bが、澤崎が逮捕されたことをテレビ等の報道で知り、他の園児とも話をし、さらに、警察官からいろいろ事情を聞かれ、警察の捜査の過程でXの母親とも接触するなど少なからぬ情報を入手する中で、澤崎をX殺害の犯人であると思い込み、当日夜澤崎がXを連れ出したとの状況を自分で想定してしまい、約三年後に、Bが何かを目撃しているのではないかと期待していた捜査官による事情聴取の際の暗示・誘導の影響を受け、Bの生来の多弁傾向や人に認められたいとの欲求の強さも加わり、事実体験していないにもかかわらず、澤崎によるX連れ出しを目撃したかのような供述をしてしまったことが疑われるような状況が随所にみられる。昭和五〇年五月ころからのBの供述は、例えば、X連れ出しに関しての重大な事実を他の園児から聞いたとして話しながら、いつのまにか聞いた事実は欠落してしまい、今後は内容を変えて自ら目撃したと供述する如く、証言も含めて多くの点で不自然かつ不合理に変遷しており、本当に記憶に基づいて供述していると考えてよいか判断に苦しむところが多い。そして、Bの供述には客観的に認定し得る事実と対比し、明らかに矛盾する点がある。一例をあげると、Bが女子便所に隠れてX連れ出しを目撃したと供述する時間帯である午後八時ころには、当日の宿直員であったB野が、男子棟園児の各部屋を端から順に見回り、同人がXの行方不明に気付いたのであるが、B野の供述による限り、そのときBは自室にいたと認定するほかなく、そうだとすれば、Bは女子便所からX連れ出しを目撃できるはずがないのである。検察官はこのような重要な事実につき何ら説得的な反論をなし得ていない。そして、Bの前記性格とその供述経過からすると、多くの供述が思いつきで述べられている疑いが生ずる。結局、B供述は、これが事実に反すると断定はできないまでも、真実と考えるについては払拭し難い大きな疑問がある。

なお、検察官は、あたかも、Bの記憶力はよく、自分の経験したこと以外の虚偽の事実を述べることはできないから、その目撃供述は信用できると主張するかのようであるが、Bがそれほど特殊な能力の持ち主であると認められないのは当然であって、Bの能力の観点から右に述べた点の判断に影響するものはない。

(3) A子供述

園児A子は、他の園児と異なり、X死亡事件からそれほど間もない約一週間後から、澤崎がA子の居室である「さくら」の部屋からXを連れ出したと供述し始めているため、A子の供述は、Bと違った意味で重視される証拠の一つであり、検察官は信用性が高いと主張する。しかし、A子の供述によれば、当日の夜宿直の職員らがXを捜して「さくら」の部屋へ来たことをA子自身知っているというのであるから、いくら眠かったとしても、もしA子が供述しているようなことを真実体験しているのであれば、このことを職員らに話すのが自然と思われるのに、一切話していないという、他の園児供述に対するのと同様の疑問がある。そして、A子の供述のうち証言は第一回の証人尋問期日では澤崎がXを連れ出すのを見たとの供述をせず、その後長い時間をかけた未やっと証言するに至ったが、証言内容は総じて質問に辛うじて答える態のものであり、本当に記憶があって証言しているのか心証を形成することが困難である。そこで捜査段階の供述にまで遡って考察しなければならないが、まず、同人がX死亡事件から約一週間後にした供述は、約二週間後以降にした供述と、目撃場面の状況が著しく異なっており、同一場面の記憶を述べたとは考えにくい。捜査に当たった警察官の公判証言等を総合すれば、A子の最初の事情聴取当時、警察官において既に澤崎が犯人ではないかとの疑いを強めていたことが窺われること、このA子の事情聴取の前日に、Bによって「Xが『さくら』の部屋にいた」との供述がなされていること、A子が後に捜査官らに対して供述する事実とも明らかに異なる場面が供述されている点があることを総合して考えれば、A子が、「さくら」の部屋から澤崎がXを連れ出したのではないかと推測していた警察官の影響を受けて、他の日の出来事をそれほど意識もせずにX死亡事件当日の出来事として述べた可能性が強いといえる。そして、同事件から約二週間後にした目撃供述も、その事情聴取に至る経過、二名の警察官が二日がかりで当時A子がいた山の中に出かけ、一緒に遊ぶなどなだめすかして供述を得ることができた状況を考えると、やはり澤崎によるX連れ出しをA子が目撃したことを期待した警察官による暗示・誘導の可能性が否定できない。その後の捜査官に対する供述や証言において、澤崎を目で見たのか目は閉じており声を聞いただけなのか、その他澤崎が来た方向、Cが呼びに来た状況、澤崎とXとの前後関係、澤崎の服装等の点について変遷を示しており、これらの点は検察官のいうように供述の信用性に影響するようなものではないと一蹴できない変遷である。さらに、B川が、Xの行方不明を知って捜索する中でA子を見たときにA子は眠っていてゆすっても起きなかったと供述していることからすれば、テレビの途中で部屋に帰ったA子はそのまま布団に入って眠ってしまい、供述するような状況を一切目撃していないのではないかとの疑いさえ生じるのである。

検察官は、A子は見たことは忘れず、見ていないことをこれに付け加えて述べるようなことはないといわば特殊な性質を持つかのように主張するが、A子の精神遅滞の程度は軽度であり、供述の信用性判断にそれほど特別な考慮を必要とするとは認められない。結局、A子供述も、その信用性には到底看過することのできない大きな限界がある。

(4) その他の園児の供述

その他の園児三名は、澤崎によるX連れ出しを目撃したと供述したり、B供述及びA子供述を裏付ける供述をしたりしているが、それらの供述は結局あいまいでかつ大きく変遷していると評さざるを得ず、証言においては一部検察官主張事実と反対の趣旨の供述もしている。その上、重要な供述部分の多くは第二次捜査段階に初めて現れたものであって、X死亡事件後間もないころに供述していない理由が合理的に説明できない。内容的にも、例えば、D及びE子は、X死亡事件当日午後八時ころにXと澤崎を見たにもかかわらず、同事件当夜にXを捜している職員からXの行方を聞かれ、自分達も一緒に捜しながら、職員に対してXの目撃に関する事実を何も話していないという極めて不自然なものである。園児Cについては、そもそも過去の事実を時間的な関係をも記憶し、これを思い出して供述する能力が低いと認められる。

右園児らの目撃供述等は、自己の経験に基づいて供述されたものではなく、暗示・誘導によって形成された可能性が高いといわざるを得ない。

(5) 以上のとおり、各園児の供述をみると、多かれ少なかれその信用性に疑いを抱かせる事情が存在する。そもそも、園児供述から澤崎によるX連れ出しが認定できる旨の検察官主張の根本に存在するのは、園児らの供述に多少の変遷やあいまいさがあっても、利害関係のない園児らが口をそろえて澤崎によるX連れ出しに結び付く供述をしている以上、その事実は存在したに違いないとの考えであろうと思われ、これは、一般的な感覚としてはわからないではなく、その信用性は慎重に検討されてしかるべきである。しかしながら、本件各園児供述は、これらが事件の直後にたまたま園児の方から申告されるというような形で出てきたのではなく、例えば先にA子供述及びB供述のところで述べたように、最も重要な供述が出てくる過程において、あらかじめ捜査官がある程度の情報を得ており、これに基づいて暗示・誘導した結果得られた供述であることを窺わせる状況がある。他の園児供述についても、先に別の園児が述べたことに沿うように新しい供述を始めるなど、捜査官が得た情報に基づく事情聴取による暗示・誘導の影響を受けたことが同様に窺われる。所論は、捜査段階での園児供述について暗示や誘導がなかったといい、特に立会人立ち会いの下での取調べにおいては誘導ができない旨主張し、各取調官や立会人の証言を援用する。しかし、ここでいう誘導は、はっきりそれとわかる意識的な誘導だけではなく、園児との会話を通じての、時にはそれと意識しないでもなされる誘導をも含むのであって、立会人がそれと気付かないこともあり得ると考える。そして、取調べは密室内のことであるから、誘導があったか否かを直接証明する証拠の存在を指摘することはなかなか困難であるといわざるを得ないが、前記園児供述については、これを整理すると次のような特徴が認められるといってよい。すなわち、①園児は一般に暗示・誘導にかかりやすいといわれている年少者であること、②事件当日、園児のうち誰一人として目撃事実をA山学園の職員には話しておらず、重要な供述の多くが事件後三年もたってなされていること、③園児の証人尋問において、その場の雰囲気等を考慮してもなお証言回避の傾向が顕著であり、捜査段階での整然とした供述調書の内容と余りにもかけ離れていること、④園児の目撃供述は、いずれもそれまでに十分時間と機会があったと思われるのに、園児にとって最も信頼できる職員や両親等に話されておらず、最初に警察官に対してなされており、しかも、捜査官が各園児から事情を聴く前にあらかじめ情報を把握した上、澤崎が犯人ではないかとの見込みの下になされたと認められること、⑤取調官が園児から事情を聴くに当たって、園児と一緒に時間をかけて遊んだりすることは、一面において園児の気持ちをほぐし、話しやすい雰囲気を作り出すことは事実であろうが、他面において、迎合しやすく、暗示・誘導にも乗りやすい心理状態にならしめる危険性があること、⑥客観的事実と整合しない供述や不自然不合理な供述の変遷が多いこと、時間の経過から考えて覚えていそうもない事実について具体的で詳細な供述をしている部分があること、⑦園児の中には、そもそもその記憶能力に問題がある者もいることなどである。これらの間接事実を総合して考察すれば、本件園児の目撃供述等は、取調官による暗示・誘導によってなされた疑いがあるといわざるを得ない。そして、本件における検察官請求にかかる各取調官の証人尋問によっても、未だ右疑いを解消するに至らない。このようにみると、本件において、そもそも実質的にみて「園児らの供述の一致」があるといえるのか疑問とされる余地があり、もとより園児供述を過度に重視することは厳に慎まねばならない特異性があることに注意すべきである。各供述の変遷及びそのあいまいさ並びに供述内容の不自然さ、裏付けの不存在等から生じる供述の信用性に対する疑問は、そのまま澤崎によるX連れ出し事実があったとすることへの疑問となる。

(四) 澤崎にX殺害についてのアリバイがないと主張することについて

検察官は、澤崎にX殺害についてのアリバイがないことを間接事実の一つとして主張するかのようである。しかしながら、本件で問題となっている被告人の記憶と対比される客観的事実は、澤崎のアリバイに関する事実に直結するものであり、澤崎にアリバイがないことはまさに本件偽証事件の結論的部分ともいえるのであって、これを間接事実として主張するのは結論をもって理由とするようなものであって無意味といわざるを得ない。検察官の所論を検討すれば、結局のところ、澤崎が殺人事件の捜査段階において自己の行動を十分に説明し得なかったことが不自然であり、同人の主張するアリバイに信用性がなく、また、B野及びB川の各供述によれば午後八時六分ないし九分ころに同人らが澤崎を目撃したことが認定できるとして、これらが、本件偽証事件に影響を及ぼすことを主張するに過ぎないものであると考えられる。

しかしながら、澤崎は、殺人事件の被疑者として逮捕されるまでは、「B谷らとともに管理棟事務室におり、青葉寮におやつの要否を尋ねようとして管理棟から出たところでB川と会った。」旨供述しており、逮捕勾留後の供述に関しては変遷がみられるものの、澤崎はこれを現実には存在しない空白の時間があるかのような前提を与えられて混乱したためである旨弁解するところ、その弁解は関係証拠に照らし、容易に排斥できるものではない。

また、澤崎が、午後八時六分ないし九分ころにグランドでB野及びB川から目撃されたという点については、既に述べたとおり、結局、検察官主張の事実を認めることはできない。

したがって、この点に関する検察官の主張も採用できない。

11  客観的事実に関する結論的判断

以上、管理棟事務室内での出来事を中心に主要な争点をみてきたが、その他の証拠も含めて総合的に判断すれば、電話の順序に関しても、C林電話の時刻に関しても、検察官が主張する客観的事実を認めることはできないといわざるを得ない。

すなわち、検察官は、午後八時前に被告人がA山学園を出発し、その後に澤崎とB谷のみが管理棟事務室に残ったという状況を主張の基本としているところ、被告人の午後八時前出発の事実を立証するための最も直接的で重要視されている証拠はC林証言であり、それ自体ある程度の信用性は認められ、その他にも、被告人が午後八時前にA山学園を出発したことを窺わせる証拠も存在するが、一方で、証言事項が電話の時刻という通常人の記憶に残りにくい事柄であること、通話記録等客観的証拠による裏付けがない供述証拠であること、証言内容にも看過できない問題点があること等の限界があるのに加え、それほど大きくは動かし難いと考えられる被告人の神戸新聞会館到着時刻と走行実験の結果は、被告人が午後八時前に出発したことに大きな疑問を生じさせるものである。そして、管理棟事務室内での出来事を全体としてみると、検察官が前提としている二つの事実、すなわち、E田が午後七時五〇分ころから午後八時二〇分ころまでは若葉寮におり管理棟事務室にはいなかったこと及び澤崎が午後八時六分ないし九分ころにグランドにいたことは、むしろ真実ではない蓋然性が高いと認められる。そして、C林電話に至るまでに管理棟事務室内でなされた電話の順序・時刻は確定し難いものではあるが、これらに関する第三者の供述等の証拠のうち、特にX死亡事件当日により近い第一次捜査段階でなされた供述は、C林電話が検察官主張のような午後七時五〇分ころになされたことを裏付けるものではなく、むしろ午後八時を過ぎてなされたものであることを示唆するものが多い。この事実を加えて、被告人、B谷及びE田の供述を総合検討すると、電話の順序に関しては、認定の程度には至らないものの、弁護人が主張するようにD原電話が最初で、その後大阪放送関係電話がなされた可能性が高いと認めることができる。そして、C林電話の時刻に関しては、少なくともこれが検察官主張のように午後七時五十数分ころには終了していると認めることはできず、むしろその時刻が午後八時を過ぎていた可能性がかなり高いと判断され、被告人の出発時刻も午後八時を過ぎていた可能性が高いこととなる。

なお、そうだとすれば、検察官が主張するX殺害事件の犯行時刻との関係からみて、澤崎にアリバイが成立している可能性が高いと判断できる状況にあるといえるのであって、虚偽のアリバイ工作がなされる中で被告人が本件偽証に及んだとする検察官の構想自体成り立たないことになる。

四  主観的虚偽性及び犯意について

前項(第二の三)において述べたとおり、検察官の主張する客観的事実を認めるに足りる証拠はなく、むしろ、検察官の主張する客観的事実は誤りである可能性が高いと考えられるのであり、そうすると、客観的事実が被告人の証言事実と異なることを中心としてその主観的虚偽性を推認しようとする検察官の手法によっては、もはや公訴事実を認めることは困難であるともいい得るところである。しかしながら、一方では、被告人の自白ともみられるような捜査段階の供述が存在するので、さらにこの「自白」によって主観的虚偽性及び犯意を認めることができるかについて検討すると、原判決が第八の六「被告人の自白の信用性」の項(396頁)で説示する判断はおおむね相当であり、「被告人の自白については、それを真の自白といってよいのか疑問があり、しかもその内容においてそれを信用するには疑問がある。」旨の結論に誤りはない。

すなわち、弁護人の接見や、関係者による激励のシュプレヒコールは、一般的には自白の信用性を高める外形的状況とはいえる。しかし、本件における具体的状況をみると、弁護人との接見がほぼ毎日なされたとはいえその時間は短時間であるのに対し、加納検察官の取調べは連日のように長時間にわたるものであったところ、同検察官は、被告人の社会的地位も認め、健康状態にも留意して取調べをしていたと認められるのであって、取調官と被疑者という対立関係があることを前提として考慮しても、同検察官と被告人との間にそれなりの人間関係が形成されていくことは容易に推測できる。その加納検察官が、弁護士になってそれほど年数を経ていない当時の弁護人らの活動に対して「経験不足で未熟である。」などの批判的な発言をしていたと認められることからすれば、被告人が述べる、「自己の惨めさと弁護士のスマートさから、気持ちの上で弁護人との違和感が強まり、弁護人への信頼感を失っていった。」との心理状態は十分あり得ると考えられる。仮に右のような心理状態であったとすれば、弁護人の接見も、虚偽自白の防止としての十分な役割を果たし得ないことになるのであって、このような状況のもとでは、右外形的事情を過大に評価することはできない。

そして、①加納検察官による被告人の取調べは、暴行や脅迫を伴うものではなく、同検察官が被告人の健康状態等にも留意して取調べをした点はそのとおりであるとしても、被告人は、それまである程度高い社会的地位を認められる立場にあったにもかかわらず、突然逮捕、勾留された上、この取調べは二月末から三月中旬といういまだ寒さの厳しい季節に連日夜遅くまで長時間に及んだのであって、肉体的にも精神的にもかなり疲労した状態であったと考えられること、②取調べ方法が、多くの証拠を突き付けて被告人の供述の変遷を取り上げ、その供述変遷の理由を細かく尋ねて追及するものであり、このような取調べの当否はさておき、被告人にとっては自己の記憶を混乱させられかねないものであったこと、③特に、この取調べの際には、「記憶」と「認定事実」とを細かに使い分け、綿密な論理で追及されたことが窺われるのであるが、ある事実の想起が「記憶の喚起」であるか「認定事実」であるのかは人の内心に属する微妙な事柄であって、この区別の基準としてはいろいろな考え方があり得ると考えられるところ、一般の場合において人がそこまで意識できるか否かはかなり疑問というべきであり、被告人は心理学の専門家であるが、取調官と身柄を拘束された被疑者という立場と、法律の土俵に上げられた論争であったことが窺えることからすると、この点に関する議論は被告人に分の悪いものであって、被告人が弁解として述べる「果てしない議論に破れた」との状況も容易に想定できるものであること、④加納検察官が、取調べに際し、「澤崎がXを連れ出すところを目撃した園児の新供述があり、これは心理学者・精神学者の鑑定も経ており信用できるから、X殺害の犯人は澤崎に間違いがない。」と告げたことが認められるが、Xの行方不明が発覚当時にA山学園におらず、必ずしも真実を知り得る状況になかった被告人としては、このような言葉でX殺害について澤崎の無実に対する確信が揺らぐことは十分考えられ、被告人の国賠証言はもともと澤崎の無実を前提とするものであるだけに、右確信が揺らぐことは自分自身の偽証罪の嫌疑を晴らす気概をそがれる方向に働くこと、などに照らせば、多数回に及ぶ加納検察官の取調べの中で、被告人が真意とはニュアンスの異なる供述調書に署名指印することは十分考えられるところである。

なお、ここで「記憶の喚起」と「認定事実」の区別について付言すると、その区別が微妙でなかなか困難であること原判決が説示するとおりである。もちろん、明らかに記憶にないことを記憶しているかのように陳述していることがわかる場合があるのも当然であるが、人は全く忘れていた事実を、何かのきっかけで、何かヒントを与えられ、あるいは何か別の事実を教えられて思い出すようなことはいくらでも経験することである。そのような区別の微妙な問題をいちいち取り上げ、例えば偽証罪に問擬してみても、喚起された記憶であるのか、あるいはそうでないのかにつきたちまち立証に行き詰まり、仮に形式的に証拠を揃えることができたとしても、得心のいく事実認定はなかなか困難であろうと思われる。そこに本件検察官の手法、すなわち客観的虚偽性を立証して主観的虚偽性を推認しようとの手法が用いられる実質的根拠が存在するといってよい。当裁判所も、既に述べたように右手法は実務的に適切かつ相当なやり方であると考えるが、被告人の検察官調書にいう「記憶の喚起」と「認定事実」をめぐる議論は、右の観点からすれば、偽証の主観面(主観的虚偽性及び犯意)を立証するものとしてほとんど積極的意味を持ち得ないというべきである。

その他所論がるる主張する点を検討してみても、原判決の認定・判断を左右するものはない。

五  結論

これまで述べてきたとおり、本件における証拠によって、証言事項に関して検察官の主張する客観的事実はこれを認めることはできないから、これによって被告人の証言の主観的虚偽性を推認することはできず、被告人の自白もその信用性は低いものであって、結局公訴事実を認めることはできない。これと同旨の原判決に事実誤認は存在せず、検察官の事実誤認の論旨は理由がない。

よって、刑訴法三九六条により、検察官の本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 河上元康 裁判官 飯渕進 裁判官 鹿野伸二)

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